第46話 水蛙功
文字数 3,827文字
ここは作業場のとなり。天井が高く、だだっ広い部屋の壁際に、剣や槍、鉾 などの武具が置かれている。どうみても武術の修練場だった。
しかしここは修練場などではない。晴夫はここを《診察所》と呼んでいる。
藍那は壁際の武具から、天星羅に似た細身の剣をひと振り取った。剣身も短く、女物の拵 えだろう。
部屋の中央に立ち、柄 へ剣指を添えて構える。対峙する晴夫 は右手に天星羅を握り、その剣身を、肩から背後へとまわした。膝を曲げて腰を落とし、這いつくばるような格好で左手を床へつく。
まるで蛙のような奇妙な構えだ。
そう蛙。この構えをなんだと笑うものは素人に過ぎない。
心得のあるものが見れば、一目瞭然。地についた両足と左手の下に、水面 のような勁の薄膜が張られている。
そして晴夫の身体を這い上がった勁膜は全身を覆い、あっというまに透明な鎧の出来上がりだ。
地脈から吸い上げた勁を、己の鎧と成す。そのために、彼は独特の調息を行う。両頬が、蛙よろしく、大きく膨らんではすぼむを繰り返した。
「しいーっ!」
晴夫が気合を入れた。同時に足元から目に見えぬ触手が、藍那の方へいっきに伸びていく。
その形はまさに蛙の舌。
この不可視の舌に捕らわれると、動きを奪われたうえ、最悪床に叩きつけられる。
跳躍。
宙返りながら勢いにのせて剣を振り下ろした。すかさず、晴夫が背後に回した天星羅を頭上に構える。
「せいっ!」
打ち合ったが手応えがまるでない。なぜなら晴夫を包んだ勁の鎧に、藍那の力がすべて絡め取られているからだ。
一閃、一閃、また一閃。
なんど斬り込んでも同じだった。晴夫はただ天星羅で受けているだけなのだが、勁力を吸われているせいか、徐々にこちらの精度が落ちてくる。
「ほうれ」
床を這ったまま、晴夫が滑るようにくるくると旋転した。動きに合わせ、蓄積された勁が巨大な渦となって、藍那を弾き飛ばす。
「くっ!」
すかさず体勢をととのえ、とんぼを切って床へと着地した。
「ししし、今日の天星羅は一段とよく鳴くねえ。聞こえる聞こえる」
這いつくばった晴夫がにやりと笑う。
水蛙 功。
己の周囲に勁膜を張り巡らせ、あらゆる攻撃を弾く、守備に徹した技だ。しかも功夫 を積めば、勁を自在に操ることで、このように攻めに転じることもできる。守を攻に転じるという意味では、双極剣に相通じるものがあった。
これまでの戦績は八試合、六敗二引き分け。
帝都で負け知らずと評判の藍那が、唯一苦手とする相手であった。今日こそ、念願の一勝をもぎ取りたいところである。
水蛙功は徹底した守りの剣。ましてや達人の技ともなれば、正面からぶつかって勝てる訳がない。
(ならば、こちらも絡め手で攻めるまで)
十分に動いて勁は練れていた。技を放つ機は熟している。
藍那が懐から取り出したのは一本の飛鏢。
「せいっ!」
尻輪の紅巾が目に鮮やかなそれを放った。飛び道具はそれほど得意ではないが、この程度なら外さない自信はある。続けざまに二投目を投げると同時に跳躍し、独楽のように旋転しながら、懐から抜いた三投目を打つ。
眉間、喉笛、そして頭頂部。
三つの飛鏢がわずかな時間差で、それぞれの目標へと到達し、突き刺さるかに見えた。しかし寸前、勁膜に阻まれたそれらは、そのままぴたりと静止する。
攻撃を弾く晴夫の勁と、鏢に込められた勁が拮抗していた。ぶつかり合う勁が渦を巻き、紅巾をなびかせ、鋼が震え、唸りをあげる。
「これで動きを止めたとしたら上等な策だ。でも決め手には至らないねえ」
藍那を見上げ、晴夫がニヤリと笑った。それには答えず、柄 をすばやく順手から逆手に持ちかえ、力の限りに床を突く。
「――!?」
剣先から放たれた勁が三つに分かれ、鏢へと伸びた。鏢身がかすかな光を放つ。突如、晴夫の鎧が破砕され、飛鏢が音を立てて床へと落ちた。
すかさず距離を詰め、剣を晴夫の鼻先へと向ける。
「ほう……これは……なんとも……」
表情の消えていた顔に、笑みが浮かんだ。
「今回は私の勝ちですね」
藍那もほほえみ返し、剣を鞘に収めた。
構えを解くと、晴夫は落ちていた飛鏢を拾い上げ、立ち上がる。一瞥し、苦笑しながら藍那へと差し出して言った。
「随分と勁を通す、いい鏢じゃねえかと思ったのさ」
「ええ、あなたの作品です晴夫。お気づきでしょうが、ついこないだまで、蔵人の持ち物でした。でがけに、緋霧 さんのところから届けられたのです。今朝がた、香良楼の瓦礫を除けていたら、出てきたと」
「へえ、あいつも粋な置き土産をしたもんさね」
「ついでなので、ここに来る前に《大尊》に寄りましてね。卯夏 さまに、ちょっとした試みに付き合ってもらいました」
「《大尊》の管主にかい。そりゃまた大掛かりな試みだねえ。つまりこの鏢に、《勁力 相殺》の術でも仕込んだってところか」
「そのとおり。あなたの水蛙功に勝てるとしたら、この方法しか思いつきませんでした」
勝てたのは卯夏の法術のおかげだ。加えて飛鏢のできの良さ。晴夫が自画自賛するだけのことはある。込めた法術が損なわれることなく、完璧に発動した。
晴夫は肩をすくめた。
「ま、あたしの作った鏢に負けたのなら、文句は言うまいよ。それにしてもおまえさん、ようやっと道具の扱い方が分かってきたじゃねえか。以前のおまえさんなら、考え付きもしなかった手さね」
「たしかに。蔵人と戦わなければ、思いつかない方法でした」
「それでも勝ちは勝ちだ」
晴夫は手にした天星羅の剣身を藍那にかざす。
「あたしに言わせりゃ、剣も刀も道具に過ぎない。江湖で生き延びるための道具さね。もちろん、観賞用の宝剣は別だがね。その道具に過ぎないものに、変な意味や価値をなすりつけて、使いどころを誤るなんてえのは愚の骨頂だ。
剣は武人の魂――ああけっこう。だが剣を捨てて勝てるならそれでよし、別の道具を使って勝てるならそれもよし。弓だろうが石ころだろうが武器は武器だ。刀剣にこだわること自体が、おかしいのさ。肝心なのは勝って生き延びること、あたしはそう思うね。もちろん、この天星羅だって例外じゃない」
「たしかにそうかもしれませんが……」
晴夫 の言っていることは至極まっとうである。しかし天星羅を相棒に精進してきた自分としては、剣などただの道具だと言われてしまうと、身も蓋もない。
「ま、いつもの説教だと思って聞き流しとくれ。しかしまいったね、あたしの水蛙功がこうもあっさりと破られるとは。この次におまえさんと手合わせするときは、なにか罠でも仕込んでおくか。
この鏢も、一緒に研いでおいてやるよ。なに、こっちは無償 でいい。あたしに勝てた報酬だ。金 は銀鈔十枚。支払いはいつもの通り、天星羅を受け取りに来たときでいい」
「受け取りは」
「そうさね……この感じだと二日後……ってところか」
銀鈔十枚といえば、紅籠 街の中楼で一晩遊んでも釣りが来る。研ぎの報酬としては安くはない。しかし研師の多く住まう奥尔罕 でも、晴夫は屈指の腕の良さだ。
「では、宜しくおねがいします。この剣は、その時までの代わりということで」
「それでいいのかい? いつもそれだねえ」
「握り具合が天星羅と似ていますので。使いやすいのが一番です」
そのとき、下男を務める野明 が茶を運んできた。彼もまた元宦官で、男女の判別が難しい顔立ちをしている。歳は晴夫よりずっと年上だろう。訳あって声を失い、いつも静かな笑みを浮かべていた。
晴夫はさっさと作業場へと入り、残された藍那は片隅で茶を飲んだ。
壁にあるのは刀剣、斧、槍、鉾。珍しいところでは双鈎。すべて晴夫が古物屋で買ってきて、自分で鍛え直した。いずれも高価ではなく、それどころか店の片隅で埃をかぶっていたのもあったという。しかし彼の手で研がれたそれらは、名工の手による逸物 と言っても疑われないだろう。
蔵人から仲介され、初めて天星羅を研ぎに出した時のことを、今でもはっきりと覚えている。戻ってきた剣身を見て、その輝きに衝撃を受けた。
まるで蒼い月光を、その身に宿らせたようだった。
幼い頃、初めて母の套路を目にした夜を思い出した。剣身に月の光を滑らせていた天星羅が、眼前にあった。
それからというもの、事あるごとに晴夫に世話になった。晴夫は蔵人の紹介がなければ、どんなに大金を積まれても仕事を引き受けない。ある意味、陦蘭 と同じくらい、天才肌の変人と言えた。
藍那が茶を飲む傍ら、野明 は箒で《診察所》の床を払っている。北方の出身か、抜けるように肌が白い。しわに覆われているが目鼻立ちは整っていて、若い頃はさぞ美しかっただろう。
「じゃあ、また二日後に。ご馳走さま」
立ち上がり、野明に礼を言った。
工房をあとにし、金亀楼に戻ったのは、晩鐘がなる頃だ。西の空はとても美しい夕焼けだった。
晴夫が襲撃されたとの知らせが入ったのは、翌朝のことだ。
しかしここは修練場などではない。晴夫はここを《診察所》と呼んでいる。
藍那は壁際の武具から、天星羅に似た細身の剣をひと振り取った。剣身も短く、女物の
部屋の中央に立ち、
まるで蛙のような奇妙な構えだ。
そう蛙。この構えをなんだと笑うものは素人に過ぎない。
心得のあるものが見れば、一目瞭然。地についた両足と左手の下に、
そして晴夫の身体を這い上がった勁膜は全身を覆い、あっというまに透明な鎧の出来上がりだ。
地脈から吸い上げた勁を、己の鎧と成す。そのために、彼は独特の調息を行う。両頬が、蛙よろしく、大きく膨らんではすぼむを繰り返した。
「しいーっ!」
晴夫が気合を入れた。同時に足元から目に見えぬ触手が、藍那の方へいっきに伸びていく。
その形はまさに蛙の舌。
この不可視の舌に捕らわれると、動きを奪われたうえ、最悪床に叩きつけられる。
跳躍。
宙返りながら勢いにのせて剣を振り下ろした。すかさず、晴夫が背後に回した天星羅を頭上に構える。
「せいっ!」
打ち合ったが手応えがまるでない。なぜなら晴夫を包んだ勁の鎧に、藍那の力がすべて絡め取られているからだ。
一閃、一閃、また一閃。
なんど斬り込んでも同じだった。晴夫はただ天星羅で受けているだけなのだが、勁力を吸われているせいか、徐々にこちらの精度が落ちてくる。
「ほうれ」
床を這ったまま、晴夫が滑るようにくるくると旋転した。動きに合わせ、蓄積された勁が巨大な渦となって、藍那を弾き飛ばす。
「くっ!」
すかさず体勢をととのえ、とんぼを切って床へと着地した。
「ししし、今日の天星羅は一段とよく鳴くねえ。聞こえる聞こえる」
這いつくばった晴夫がにやりと笑う。
己の周囲に勁膜を張り巡らせ、あらゆる攻撃を弾く、守備に徹した技だ。しかも
これまでの戦績は八試合、六敗二引き分け。
帝都で負け知らずと評判の藍那が、唯一苦手とする相手であった。今日こそ、念願の一勝をもぎ取りたいところである。
水蛙功は徹底した守りの剣。ましてや達人の技ともなれば、正面からぶつかって勝てる訳がない。
(ならば、こちらも絡め手で攻めるまで)
十分に動いて勁は練れていた。技を放つ機は熟している。
藍那が懐から取り出したのは一本の飛鏢。
「せいっ!」
尻輪の紅巾が目に鮮やかなそれを放った。飛び道具はそれほど得意ではないが、この程度なら外さない自信はある。続けざまに二投目を投げると同時に跳躍し、独楽のように旋転しながら、懐から抜いた三投目を打つ。
眉間、喉笛、そして頭頂部。
三つの飛鏢がわずかな時間差で、それぞれの目標へと到達し、突き刺さるかに見えた。しかし寸前、勁膜に阻まれたそれらは、そのままぴたりと静止する。
攻撃を弾く晴夫の勁と、鏢に込められた勁が拮抗していた。ぶつかり合う勁が渦を巻き、紅巾をなびかせ、鋼が震え、唸りをあげる。
「これで動きを止めたとしたら上等な策だ。でも決め手には至らないねえ」
藍那を見上げ、晴夫がニヤリと笑った。それには答えず、
「――!?」
剣先から放たれた勁が三つに分かれ、鏢へと伸びた。鏢身がかすかな光を放つ。突如、晴夫の鎧が破砕され、飛鏢が音を立てて床へと落ちた。
すかさず距離を詰め、剣を晴夫の鼻先へと向ける。
「ほう……これは……なんとも……」
表情の消えていた顔に、笑みが浮かんだ。
「今回は私の勝ちですね」
藍那もほほえみ返し、剣を鞘に収めた。
構えを解くと、晴夫は落ちていた飛鏢を拾い上げ、立ち上がる。一瞥し、苦笑しながら藍那へと差し出して言った。
「随分と勁を通す、いい鏢じゃねえかと思ったのさ」
「ええ、あなたの作品です晴夫。お気づきでしょうが、ついこないだまで、蔵人の持ち物でした。でがけに、
「へえ、あいつも粋な置き土産をしたもんさね」
「ついでなので、ここに来る前に《大尊》に寄りましてね。
「《大尊》の管主にかい。そりゃまた大掛かりな試みだねえ。つまりこの鏢に、《
「そのとおり。あなたの水蛙功に勝てるとしたら、この方法しか思いつきませんでした」
勝てたのは卯夏の法術のおかげだ。加えて飛鏢のできの良さ。晴夫が自画自賛するだけのことはある。込めた法術が損なわれることなく、完璧に発動した。
晴夫は肩をすくめた。
「ま、あたしの作った鏢に負けたのなら、文句は言うまいよ。それにしてもおまえさん、ようやっと道具の扱い方が分かってきたじゃねえか。以前のおまえさんなら、考え付きもしなかった手さね」
「たしかに。蔵人と戦わなければ、思いつかない方法でした」
「それでも勝ちは勝ちだ」
晴夫は手にした天星羅の剣身を藍那にかざす。
「あたしに言わせりゃ、剣も刀も道具に過ぎない。江湖で生き延びるための道具さね。もちろん、観賞用の宝剣は別だがね。その道具に過ぎないものに、変な意味や価値をなすりつけて、使いどころを誤るなんてえのは愚の骨頂だ。
剣は武人の魂――ああけっこう。だが剣を捨てて勝てるならそれでよし、別の道具を使って勝てるならそれもよし。弓だろうが石ころだろうが武器は武器だ。刀剣にこだわること自体が、おかしいのさ。肝心なのは勝って生き延びること、あたしはそう思うね。もちろん、この天星羅だって例外じゃない」
「たしかにそうかもしれませんが……」
「ま、いつもの説教だと思って聞き流しとくれ。しかしまいったね、あたしの水蛙功がこうもあっさりと破られるとは。この次におまえさんと手合わせするときは、なにか罠でも仕込んでおくか。
この鏢も、一緒に研いでおいてやるよ。なに、こっちは
「受け取りは」
「そうさね……この感じだと二日後……ってところか」
銀鈔十枚といえば、
「では、宜しくおねがいします。この剣は、その時までの代わりということで」
「それでいいのかい? いつもそれだねえ」
「握り具合が天星羅と似ていますので。使いやすいのが一番です」
そのとき、下男を務める
晴夫はさっさと作業場へと入り、残された藍那は片隅で茶を飲んだ。
壁にあるのは刀剣、斧、槍、鉾。珍しいところでは双鈎。すべて晴夫が古物屋で買ってきて、自分で鍛え直した。いずれも高価ではなく、それどころか店の片隅で埃をかぶっていたのもあったという。しかし彼の手で研がれたそれらは、名工の手による
蔵人から仲介され、初めて天星羅を研ぎに出した時のことを、今でもはっきりと覚えている。戻ってきた剣身を見て、その輝きに衝撃を受けた。
まるで蒼い月光を、その身に宿らせたようだった。
幼い頃、初めて母の套路を目にした夜を思い出した。剣身に月の光を滑らせていた天星羅が、眼前にあった。
それからというもの、事あるごとに晴夫に世話になった。晴夫は蔵人の紹介がなければ、どんなに大金を積まれても仕事を引き受けない。ある意味、
藍那が茶を飲む傍ら、
「じゃあ、また二日後に。ご馳走さま」
立ち上がり、野明に礼を言った。
工房をあとにし、金亀楼に戻ったのは、晩鐘がなる頃だ。西の空はとても美しい夕焼けだった。
晴夫が襲撃されたとの知らせが入ったのは、翌朝のことだ。