第20話 花蓮(カレン)

文字数 3,623文字

 月が変りいっそう暑さが厳しくなった。獅子月から乙女月までの暑季のあいだ、阿耶の街は日を追うごとに閑散とし、いつもの喧噪が嘘のようになる。
 帝をはじめ貴族や富裕層、あるいはそこそこの小金持ちまでが涼をもとめ、西の海辺か遙か東の高原(ヤイラ)へとこぞって避暑へと出かけるからだ。

 帝都に残るのは貧乏暇なしの下層民と、お上りさん目当てに店を開いている客商売連中ばかり。もちろん金亀楼の楼主杷萬(ハマン)は後者だ。秧真と侍女の寧々(ネネ)を南の板東(バンドゥ)へと避暑にやり、暑さをののしりながら額の汗をぬぐう毎日である。

 磁英頭(ジェイド)に嫁いだ愛紗も多分に漏れず、一家で避暑地として有名な魏湖(ギレス)へと出かけていった。魏湖は桜桃が名産の土地だ。由真と藍那に桜桃の砂糖漬けを買ってくると約束してくれ、由真は今から愛紗の帰りを楽しみにしている。

 蔵人の店を訊ねた翌日、花蓮から手紙が来た。そこには不在への詫びと、近いうちに由真と紫園を伴って遊びに来るようにとの誘いが綴られてあった。
 その言葉に甘え、藍那が再度華人街を訪れたのは十日の昼過ぎである。珍しく蔵人は不在で、代わりに手伝いの申武(サリム)がはたきで棚のほこりを払っていた。年は十三で、病気の母親を一人で支えるしっかり者の少年だ。

「旦那さまなら昨日、振茶(ブルサ)にお出かけになりましたよ。たぶん十五日には戻られるとおっしゃってましたが」
「振茶? それまた遠くに行ったね」

 振茶はここから三十九遥嵯歩(ファルサフ)(※一遥嵯歩(ファルサフ)=五キロ)。帝都から滑石海(マルマラ)を挟んでまっすぐ南に下ったところにある。潤檀(ウルダン)山の麓にある緑豊かな都市で、藍那も仕事で一度行ったことがあった。古くから栄えた歴史のある街であるが、気候のせいか人々の気質がのんびりとしていて治安も良い。
 行くには帝都の港から船で滑石海を渡るのが早いが、それでも一日はかかるだろう。驚く藍那に申武は頷いた。

「はい。なんでも大切な用事だそうで。珍しく花蓮さまもこちらへ残して行かれました。むこうは緑が多くていいですよね。朝晩はかなり涼しくて過ごしやすいと聞きました」
「ああ、たしかにあそこはいいところだよ。そして申武は旦那さんの代わりの店番かい。暑いのに真面目に働いて偉いじゃないか」
「本当に、最近の暑さったらたまりませんよ。おかげで置いてきぼりの花蓮さまが、たいそう不機嫌で困ります。先生が来てくださって助かりました」

 申武はそう言ってから、藍那の背後に控えていた由真をちらと見た。

「ひ、久しぶり。元気だった?」

 恥ずかしそうに声をかけると、由真も笑ってうなずいた。

「久しぶりだね。そういえば、お母さんは元気?」
「少しこの暑さにやられているみたいだ。もっとお金があれば、どこか涼しいところへ行かせてやりたいんだけど、そうもいかないし」
「そうなんだ、心配だね。そういえば、申武(サリム)は紫園さんと会うのは初めてだよね。先生のお弟子さんなんだよ。絵がとっても上手いんだ」
「はあ……」

 紫園を見上げた申武の表情が少しだけ険しくなる。紫園と由真を交互に見つめた後、ふいに視線をそらし、

「先生、花蓮さまがお待ちですので、はやく奥へ行ってあげて下さい」

 はたきを動かしながらそう告げた。

「そうだね、お待たせしても悪いし」
「先生、行きましょうよ。ほら紫園さんも」

 満面の笑みで由真は紫園の手を取った。

「じゃあまたね、申武」

 声をかけながら二人で仲良く奥へと入っていく。そんな紫園と由真の様子に表情を変えた申武の手からはたきが落ちた。藍那は床のはたきを拾い上げ、呆然となる申武に手渡す。そして彼らに続いて奥へと足を向けた。

 ***
 
 奥尔罕(オルハン)では既婚女性が夫以外の男を(ハレム)に招くことはない。しかし華羅出身の蔵人と花蓮にそういった風習は無意味であり、話し好きの花蓮のもとには、さまざまな人間が雑多に出入りしていた。

 恋を知り()めた少女の悩みから、哲学者との問答まで。幅広くこなす知識の源は、書斎を埋め尽くす古今東西の書物だ。。書棚から溢れたものがいくつかの山をなし、わずかなすき間にしつらえられた寝椅子がお気に入りの場所だった。書物の山々の頂は藍那がここを訪れる度に高くなり、裾野は広がっていく。

 生まれつき両足が不自由で、外出もままならない。そんな無聊(ぶりょう)を慰めるための読書が高じて、今では自らを書痴と称している。しかし、彼女の進言や忠告が知識をひけらかしたものだけではないことは話していて分かる。

「この間はわざわざ来てくれたのに、おらんで悪かったのう。おぬしがくると分かっていれば、出かけたりはせんかったのに」

 いつもの寝椅子に座った花蓮が顔をほころばせた。

「由真にも無駄足を踏ませてしまってすまなかったな。それはそうと可愛い着物を着ておるのお。ささっ、たんと召し上がれな」

 そう言って卓上の干し杏やら揚菓子やらをしきりに由真に勧める。
 細めた目尻にしわがひと筋刻まれているものの、肌の張りつやは衰えを感じさせない。一見すると二十代から三十代にも見える。彼女がいくつなのか正確な歳を藍那も知らないのだが、蔵人とそれほど変らないというのだから五十代にはなっているはずだ。

 美しく結わえた白髪が辛うじて年相応なのだろうか。杷萬(ハマン)によれば、この阿耶に来たばかりの頃はつややかな亜麻色だったという。
 薄い灰色の目といい、抜けるような白い肌といい、華羅の出身というが西里尔(キリル)か羅典の血が入っているのだろう。あるいは北方騎馬民族の泰雅(タイガ)か。あでやかな愛紗とは違った透明な美しさは、冬空にかかる銀の月を思わせた。

「いえ、前もって使いをやればよかったのですが。それにしてもあなたを置いていくなど、蔵人にしては珍しいものですね。いつもなら商用のついでに物見遊山と、一緒に連れて行きそうなものなのに」
「ふん、(ロウ)のやつめ。今頃緑なす山のなか、さぞ涼しい思いをしておるじゃろう」

 狼とはもちろん蔵人のことで、花蓮は夫のことをいつもこう呼んでいる。肩をすくめ、灰色の瞳を紫園に据えた。

「まあ大事な商用なら致し方ない。ところで、そこもとが藍那の弟子の紫園か」

 名指しされた紫園はぎこちなく頷き、視線を床に落とす。花蓮と初めて会う者は皆、この時代がかった言葉遣いに戸惑う。それは紫園も例外ではないようだ。

「まあ、取って食ったりはせんから(おもて)をあげよ。苦しゅうない」

 穏やかだがどこか有無を言わせぬ口調である。おそるおそる顔を上げた紫園を灰色の瞳で凝視し、

「これはまた……たしかに珍しい色の瞳をしておるの」

 そう言って藍那へと視線を向ける。

「蔵人からお聞きでしょうが、彼は記憶と言葉をなくしております」
「ふむ、その辺りのことは(わし)も知っておるのじゃが……。なにもかもすっかり忘れてしまっておるとは難儀じゃのう。おまけに言葉もよう使えんとな」
「生まれつきではなさそうです。おそらく大火で恐ろしい思いをして、それがもとで話せなくなったのではないかと」
「それはありそうな話じゃ。その場合、ふとしたことがきっかけで思い出したり、ふたたび話せるようになるらしいの。どうじゃ、紫園。藍那の弟子は楽しいか? 杏奈にいろいろ聞き及んでおるが、師をたいそう慕っておるらしいの」

 花蓮がからかうように言うと、紫園が顔を真っ赤にしてうつむく。かたく握りしめた膝上のこぶしが小刻みに震えていた。

「紫園どうしたの? お腹でも痛いの?」

 心配そうにのぞき込んだ藍那が紫園の背中に触れる。途端びくりと腰を浮かせるやいなや、藍那から慌てて目をそらすとますます顔を赤面させた。

「紫園さん、顔が赤いよ。熱でもあるの?」

 由真が訊ねると慌てて両手で顔を押さえ、違うと言わんばかりに顔を左右に振った。そんな紫園の狼狽(うろた)えぶりが可笑しのか、花蓮が声を上げて笑う。

「これはなんとも初心なことよ、よいよい。しかし紫園、そなたは儂が藍那に貸した本を読んだそうじゃな。若いのに本が好きとはなかなか感心じゃ。そんなおぬしに、今日はこれを貸そうと思って用意したのじゃ。ほれ」

 傍らに積まれた本の山から一冊を取り出し卓上に置いた。重厚な革表紙の立派な装丁で、花綱の模様が金で箔押しされている。

「こないだ手に入れたのじゃ。珍しい羅典の本で、新発明の印刷機を使って刷られておる」
「へえ、印刷機ですか」
 
 花蓮は頷くと、祖尼娃(ソニア)が入れてくれた黒茶をすすった。
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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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