第10話 画学校

文字数 4,944文字

 愛紗(アイシャ)から手紙が来たのは、それからふた月を経た蟹月のはじめのことだ。
 嫁入りにともなう諸事がようやく片付き、一息ついたらしい。ぜひ遊びに来てくれと、相変わらずの達筆ぶりで書かれてあった。

 あいにく数日嫌な雨が続き、出かけられるような日和ではない。返事を書いて届けさせ、その四日後、ようやく雨が上がってくれた。
 朝から晴れて雲ひとつない。
 これは好機と早速その日の午後、藍那は紫園を伴って出かけてみた。

 旧市街の南は滑石海(マルマラ)を望む富裕地区である。高い丘がそびえ、その傾斜に張り付くように豪勢な屋敷が並び立つ。
 慈衛堵(ジェイド)の邸宅は、今は絶えた貴族の館だった。広い庭からは、海と海岸線に沿って築かれた城壁が眺められる。庭には花が咲き乱れ、陶片細工(モザイク)で飾られた飾り門も、海獣をかたどった大噴水もそれは見事なものだ。
 
 紫園の方はといえば、屋敷に足を踏み入れるなり緊張で身を固くしていた。だが藍那が庭で好きなだけ絵を描いていいと言うと、とたんに晴れやかな顔になる。まるで子どものようにうなずくと、背に負った画帳と絵筆を両手に抱え直し、従僕の後をいそいそとついて行った。
 それを見送り、侍女に(ハレム)へと案内される。藍那は思わずため息をついてしまった。内装や調度品に金銀を惜しみなく使い、このうえない贅沢ぶりだ。

 そして愛紗の部屋へと入り、女主人を一目見るなり再びため息がもれた。わずかふた月のあいだに、類いまれな美貌にさらに磨きがかかっている。

「いらっしゃい、藍那」

 浮かべた微笑みは、大輪の芍薬も負けないあでやかさ。
 愛紗は華羅絹の部屋着をまとい、黒檀の脇息にもたれて、上良(カミラ)に孔雀の羽扇を使わせていた。華羅絹には精緻な刺繍が施され、脇息は見事な象眼細工。額には既婚を表わす星が、左手の甲には多産を願う葡萄蔓の紋様が、指甲花(ヘンナ)によって描かれている。

「久しぶりね。相変わらず元気そうでなによりだわ」
(ねえ)さんこそ、またいっそうお綺麗になって」

 軽く抱擁すると、甘い香油の匂いに包まれた。勧められるまま敷布へ腰を下ろすと、他の侍女たちが茶と果物、菓子を運んできた。卓布が広げられ、その上に器が並べられる。
 なかでも特に目を惹いたのが真っ赤な西瓜(カルプズ)だ。一口大に切られ、涼しげな硝子の皿に盛られたそれに、藍那は目を細めた。

「西瓜が出たのですか」
「ええ、もうそんな季節になったわね」

 ふた月ぶりと言うことで話は尽きなかった。
 紫園が騒動を巻き起こしたあの田舎武芸者三人組は、今では金亀楼で下男として働いている。藍那にやられたのがよほど堪えたのか、あのとき「嬢ちゃん」呼ばわりだったのが今では「先生」になった。

 その紫園といえば。
 杷萬との約束どおり、藍那が弟子として面倒を見ることになったのだが、最初は箸にも棒にもかからないほどひどかった。
 二度も助けたことが功を奏し、とりあえず藍那に懐いてくれたのはいい。だがそれ以外の人物には、なかなか心を開こうとしない。

 言葉が不自由なのは仕方がない。しかしこちらに敵意がないのにむやみに脅えられれば、心証はよくないのは当然だ。おかげで男衆や下女たちからは厄介者扱いである。
 せめて役に立とうと二人で賄い方の手伝いをすれば、水瓶一つ運んだだけでも息を切らす体たらく。
 亜慈(アジー)には呆れられながら、

  ――こったら由真の方がまだ役に立つってもんすよ。

 と嫌みを言われる始末であった。
 ではせめて師匠らしく剣を教えようとしたがこれも駄目。
 棒きれを握らせても、なにかを恐れるようにすぐに手を離してしまう。どんなに藍那がなだめすかしても無駄だった。
 
 だが決して知能が低いわけではなく、藍那が友人の花蓮(カレン)から借りた本などは熱心に読む。愛紗が以前言っていたとおり、高度な教育を受けたことは分かるのだが、だからといって本ばかり読ませているわけにもいかない。

 杏奈(アナ)が紫園をここに預けたのは自活させるためであり、ならばどうにかして彼は自分の居場所を見つけなくてはならない。他と交わらず、自分のなかに引きこもって本ばかり読んでいては、とてもそれは叶わないだろう。

 さてどうしたものか――とさすがの藍那も頭を抱えたが、突破口はまったく思いもかけないところから開けた。

「それで紫園が描いた絵を持ってきてくれた?」

 そう言って愛紗が身を乗り出す。藍那は頷いて、懐から折りたたんだ半紙を取り出し、広げてから差し出した。

「これがそうなんですが、どうでしょうか」
「へえ、これを彼がねえ」

 愛紗が感心したように絵を見つめた。
 墨一色で描かれたつがいの小鳥。葉を茂らせた枝にむつまじく止まった姿が、簡潔ながら生き生きと写されている。それほど目の肥えていない藍那にも、見事な筆遣いであることは明らかであった。
 
「由真の勉強に同席させたとき、紙と筆を与えて詩でも絵でも好きなように書いていいと言いましたら、それを」
「ふうん」
「由真も私も驚きました。試しにもう一枚、中庭に咲いていた花の絵を描かせたのですが、あいにくそれは由真に取られまして」

 苦笑する藍那に愛紗は微笑んだ。

「それでみんなの絵を描かせたのね」

 紫園から花の絵を贈られたとたん、それまでよそよそしかった由真が態度を和らげた。美しい絵には人の心を動かす力がある。
 藍那はそこで一計を案じた。紫園に金亀楼で働く者たちの似顔絵を描かせ、彼らに紫園の存在を認めてもらおうと。

 王侯貴族や大商人、売れっ子娼妓ならいざ知らず、姿絵は庶民には高嶺の花だ。辻の似顔絵描きでこれほど上手いのはいないし、きっとみんな描いてもらいたがるに違いない。
 最初は由真からはじめ、出来た絵を由真が皆に見せびらかす。それでどうなるかは賭けのようなものだったが、結果は藍那に吉と出た。

 由真の絵を見て羨ましくなったものたちが、自分も描いて欲しいと次から次へと紫園の元へ願い出てきたのだ。
 賄い方の亜慈などは

 ――三枚、おんなじもの描いてぐれねえかな。頼む。

 大きな身体を縮め、真面目な顔で頼み込む。なんでも南部の郷里に住む母親と、出稼ぎに出ている二人の兄弟に、それぞれ送りたいらしい。
 だが紫園は嫌な顔一つしなかった。得意な絵を好きなだけ描け、それを喜んでくれるのが嬉しいのか、せっせと画業に励む。そうして徐々に彼らと打ち解けていった。

「おかげで今ではちょっとした人気者ですよ。紫園も以前ほど怯えなくなりました。由真などは好きな鳥やウサギの絵をねだって、今では兄のようになついてます」
「良かったわねえ。もともと由真は絵が好きだったものね。さっきのぞき窓から見たのだけれど、たしかに彼、ずいぶん変わったわ。おどおどしたところがなくなって」
「亜慈が『拾ってきた野良猫が、やっとこさ借りてきた猫になった』と笑ってますからね」

 そばで羽扇を動かしていた上良が、ちゃかすように言った。

「改めてみると、けっこういい男じゃありませんか。先生も隅に置けませんね」
「あらだめよ上良。そんなことを言ったら、男嫌いの藍那がへそを曲げちゃうわ」
「もうからかわないで下さいよ、姐さん」

 揃ってくすくす笑う主従を交互に見比べ、軽く咳をしてから神妙な顔で薄荷茶をすする。
 上良の言うとおり、たしかに顔立ちは端正でなかなかの美形なのだ。しかしそんな色めいた気持ちが全く起こらないのは、紫園があまりにも頼りなく、できの悪い弟の面倒を見ている気分になるからだ。

「それで本題ですが、姐さんから見てどうでしょうか。彼には素質があると思いますか?」
「訊くまでもないわ藍那。これだけの絵が描けるのなら、充分と言っていいわよ」
「そうですか……」

 愛紗が返した半紙を眺め、しばし逡巡する。ここに来たのは愛紗に会うためであったが、もう一つ、彼女から慈衛堵(ジェイド)に口をきいて欲しいことがあったからだ。しかし、このようなことを頼むのは、いささか図々しいような気もする。
 迷う藍那の背中を押すように、愛紗は訊ねた。

「それで、彼に絵の道に進ませるつもりなの?」
「できれば……実は、紫園を王宮附属の画学校に入れようかと思っているのです。それで好きな絵で身を立てていければと」
「ふうん、たしかに彼なら有望ね」
「ですが姐さんもご存じの通り、」
「そう、試験を受けるには、身元を保証する人間が必要なのよね。それもなるべく、社会的に地位の高い」
「おっしゃるとおりです。もちろん保証人には私や杷萬がなることも出来るのですが、用心棒と娼館の主では、相応しいとは言いかねます。それで……」
「つまり、私が旦那さまに、彼の身元保証人になってほしいとお願いすればいいのね」
「頼めますか?」
「もちろんよ。遠慮することないわ。旦那さまならきっと引き受けて下さるわよ」
「助かります」

 ほっと安堵のため息をついた藍那に、愛紗はふと真顔になる。

「でももし試験に受かったとして、学費はどうするの? 絵の勉強ってお金がかかるのよ。優秀な学生なら奨学金がでるけれど、それでもまだ足りないくらいだわ」
「私の蓄えがありますので、そこから少し出してやろうかと思います。それで足りなければあとは紫園に頑張ってもらいますよ」
「蓄えって……、あなたたしか、由真の身請けの分も貯めていたじゃない」
「ええ、まあ。でも自分ではなにも使いませんし。だからこそ、紫園と由真に有意義に使って欲しいと思いまして」
「それ、由真には言ってあるの?」
「いえ……、でも折を見て言うつもりです」

 愛紗はため息をついて、傍にあった水煙管を引き寄せた。象牙の吸い口に唇をつけ、煙を吐いてから首を横に振る。

「たしかに由真は賢いし、あのまま下女を続けさせるのはもったいないと思うわ。でも藍那、あなたもう少し自分のことも考えたら? 蓄えを人に使うのは自由だけど、あなただっていつまでも用心棒を続けているわけにもいかないでしょう。そりゃあ、なにかあったら私を頼っていいけど」
「それは助かります」
「でも藍那、年頃の娘がもらったお給金の使い道がないなんて、あまりいいことではないように思えるの。あなたのその無欲さが、私は前から心配なのよ」

 まなじりを曇らせ、愛紗は藍那を見据える。そんな視線を振り払うように明るく笑って答えた。

「姐さんは心配性ですよ。ですが、この通りの用心棒稼業ですからね、いつなんどき何があるか――ってことは、どうしても考えてしまいます。正直、十年後、自分が何処でなにをしているのか、まるで予想がつかないんですよ。将来とか老後とか、そういうのも」

 藍那の脳裏を母の姿がかすめた。
 母は自分と同じ年の頃、なにを考えていたのだろう。
 しかし、いずれ自分が左手を失い、魂の抜け殻となった果てに自死するなど、毛ほどにも思っていなかったに違いない。

「因果な商売なんです、用心棒なんて。だからこそ、由真のような子には剣など必要のない暮らしを送って欲しい。そのためには教育が必要でしょう。由真は賢い子です。教育を受ければ、きっと自分の人生を切り開いていけると思っています」
「やれやれ、あなたの好きにすればいいわよ。でももしかしたら、紫園には旦那さまの肖像画をお願いするかもしれないわ。それなら彼の学費の足しになるでしょ」
「ね、姐さん?」

 あっけにとられる藍那に愛紗はいたずらっぽく笑う。

「昔から芸術家には支援者が必要だわ。彼の筆次第では、旦那さまがいろいろと面倒を見てくれるかもしれなくてよ」
「ですが……」
「いいのよ、藍那。旦那さまだって無駄なことにお金は使わないわ。画学校のことはちゃんと頼んであげる。だから、ついでに学費のことも私に助けさせて」

 そう言って愛紗は艶然と微笑み、水煙管を咥えた。
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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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