第32話 卯夏(ウゲ)
文字数 3,299文字
《大日光明金剛来礼 、人呼んで《大尊 》。その歴史は奥尔罕 とともに始まったと言ってよい。
この都が正十字神聖帝国の首都・眉山 であった頃、異端審問教会の設立と同時に喇嘛 教と拝火教は弾圧の憂き目に遭う。
喇嘛教寺院や拝火教の神殿は徹底的に破壊され、僧や神官は国外へ追放。しかし異教と外国人の排斥は結局のところ、帝国の経済的弱体を招いただけであった。
そののち、奥尔罕の高祖・軍徒 と萬和 教に帰依した三十部族の軍によって眉山は陥落。正十字神聖帝国は遙か西へと国境線へ退け、領土を縮小させる。軍徒は都の名を阿耶 と改め、建国した奥尔罕の帝都とした。
軍徒 の精神的支柱であり、彼の良き相談相手でもあった萬和教の教母曾妃耶 。彼女の教えに従い異教を手厚く保護したことが功を奏した。
結果、奥尔罕はさまざまな民族人種宗教が集う一大帝国となり、現在までその繁栄は続いている。
華羅人街の誕生と同時に建立された《大尊》も、帝都の発展とともに規模を拡大していった。朱塗りの大伽藍は今や華羅人街の象徴であり、正門東門西門それぞれの参道に店が軒を連ね、参拝の客で賑わっている。
正門の両脇には牛頭 と馬頭 の神像が立ち、牛頭の手には五鈷杵 、馬頭の手には雷剣。それぞれが道行くものたちを眼光鋭く睥睨 している。
門をくぐれば正面に大日光明金剛来 が鎮座する大来 堂。その左手に五重塔、奥に宝物殿、右手には僧侶たちの住む方丈と講堂がある。
風に乗って流れてくるのは読経の声と線香の匂い。幼い頃を寺で過ごした藍那には、どこか郷愁を誘う光景でもあった。
(しかし、ずいぶん簡単にたどり着いたものだね)
大きく息を吐き、聴勁で辺りを窺うが尾行している気配はない。
呉椅 との一件のことを考慮して、人通りの一番多い表参道を選んだ。それでもいつなんどきこの間のような急襲があるやもしれぬ――そう考えながら神経を張りつめての道のりだったが。
拍子抜けするほどなにもなく、あっさりと到着してしまった。気になることと言えば、ときおり藍那を見てひそひそと耳打ちをする人々のことくらいか。あれだけの大立回りをして派手に負けてしまった以上、仕方のないことではある。
これほどなにもないと却って不気味なのだが、考えている余裕もなくまっすぐ方丈へと足を向けた。ここの管主卯夏 には以前ちょっとした頼み事をされたこともあり、勝手は分かっている。
箒をかけていた見習い僧に訊ねると、管主は講堂の書庫にいるとのこと。講堂には決まった時間以外参拝客は来ないので、込み入った話をするにはちょうど良かった。
見習い僧に案内され、講堂の裏口から書庫へと足を踏み入れる。狭い書庫は壁じゅうが書で埋め尽くされている。貴重な経文から比較的新しい書物まで、数え切れない文献が整然と並んでいた。
光による劣化を防ぐため、ここは窓がない。室内を照らすのは卯夏の持ち込んだ蝋燭で、そのかすかな熱がほこり臭い空気を揺らしている。
「ああ、藍那、そろそろいらっしゃる頃だと思っておりました」
目を落としていた経文から目を上げ、痩躯を振り向かせた。
禿頭に胸までかかる長い白髭。小柄のせいか、管主を示す臙脂の袈裟が不釣り合いに大きく見える。全身から威厳をただよわせ、ひさしのように垂れた眉からのぞく眼光は鋭い。
袖からのぞく皺だらけの左手甲に焼き印の跡がある。持ち主を示す頭文字は、この管主がかつて奴隷であったことの証拠だ。苦労の末に管主までのぼった人徳は本物で、信徒たちからも人望が篤い。
「蔵人からお聞きになりましたか」
「さよう、その背に負った剣のことと伺っております。はられた霊符 はそのままにしてありますな」
「はい、このとおり」
「ここではなんです、方丈へ行きましょう。失礼ですが扉を開けていただけますかな」
藍那が扉を開けると同時に蝋燭が吹き消された。先に藍那が、続けて燭台を手にした卯夏が外へ出る。老僧は陽光に青灰色の目をすがめ、藍那を伴って方丈へ足を向け、箒 を使う見習い僧に冷たい茶を所望した。
管主の住まいは方丈の北側。華風の中庭には竹に松に楓、苔むした庭石と小さな手水鉢が涼しげに目を楽しませる。
椅子を勧められると、天星羅を腰から抜いて傍らに立てかけた。背に負っていた布包みを卓上に置いてから、くくりつけていた紐を外す。ほどなく入ってきた見習い僧が冷たい黒茶を出した。一服すると老僧は目を細め、口を開く。
「では、現物を拝見しましょうか」
老僧は一礼し、布包みに手をかけた。
「ふむ」
短く呟くと慎重な手つきで中身を露わにする。霊符をはられた剣をじっと見つめると、両腕を組んだまましばし瞑目した。
沈黙のなか、藍那も目の前の剣を改めて観察する。柄はおそらく黒檀であろう。真鍮の剣首と剣格の細工も見事なものだ。剣首には円環を描く龍、剣格には向かい合う二匹の――おそらく雌雄の小さな龍が浮き彫りにされている。
振茶 の商人が曰く付きの剣にもかかわらず、細工の見事さに惹かれて買い求めた――その気持ちが分からなくもない。
それに比べると木鞘の方はあまりにもお粗末なのだが、かつては同じように華麗な装飾を施された鞘があったに違いない。あちこちを転々と流浪するうちに失われ、とりあえず合うものを急ごしらえであてがわれたのだろう。
「藍那」
瞑目し黙り込んでいた卯夏がようやく顔を上げ、口を開いた。
「まことに残念ですが、当尊ではこの剣は引き取りかねます」
驚きのあまり、藍那は呆然と老僧の顔を凝視する。まさか断られるとは万が一にも思っていなかったのだ。
「そ、それは……いったいどういう?」
「この霊符をはった方は振茶の拝み屋と伺いましたが、なかなかどうして良い術を使われる。この布にも霊符と同じ封魔の力が込められておりますな。おそらくこれで、しばらくはこの剣の邪悪な力は封じられるはずです」
「ですが……」
「さよう。どれほど強力な封印も時間がたてば効力は薄れます。なかに封じ込めたものが邪悪であればあるほど、その期間は短くなる。あなたはそれを心配されて、この寺に納めようと思われたのでしょう」
藍那はため息をついて頷いた。
「はい。こちらに納めて毎月管主さまに封魔の経を上げていただければ、おそらく、これ以上の厄災を振りまくことはないかと」
「賢明な判断です。ですがこれは当尊で預かるにはあまりに危険すぎる。たとえ私が封魔の術を施したとしても、油断が出来ない代物です」
「それは……何故ですか?」
藍那の問いに、卯夏は顎の白鬚をしごいた。
「このような大きな街中の寺です。いつなんどき、何があるか分かったものではありません。事実、一昨年も宝物殿に賊が入って貴重な宝物を盗られました。それ以外にも大火事、地震……あるいは戦乱」
老僧は茶を一口飲んで続ける。
「今の時代はかろうじて平和が続いておりますが……。この寺に正十字神聖帝国や華羅の軍がなだれ込んでくることは、充分に考えられます。そのとき、この剣が誰かの手に渡り、再びその邪悪な力を解き放たれる――そういったことは断じて避けねばなりません」
彼はそこで言葉を切って再び瞑目した。藍那は中庭へと目を向ける。額に浮いた汗をそっと拭い、卯夏の言葉の続きを辛抱強く待った。
卯夏はようやく眼を開き、言った。
「策はただ一つ、これを荒羅塔 に持っていくがよろしい」
「荒羅塔……」
「さよう。あの結界寺院なら先述のような心配とは無縁でしょう。とくに荒羅塔の結界は強力です。荒羅塔の法主である回龍 さまは、おそるべき法力の持ち主。あそこなら、この剣の力は永久に封じられるはず」
この都が正十字神聖帝国の首都・
喇嘛教寺院や拝火教の神殿は徹底的に破壊され、僧や神官は国外へ追放。しかし異教と外国人の排斥は結局のところ、帝国の経済的弱体を招いただけであった。
そののち、奥尔罕の高祖・
結果、奥尔罕はさまざまな民族人種宗教が集う一大帝国となり、現在までその繁栄は続いている。
華羅人街の誕生と同時に建立された《大尊》も、帝都の発展とともに規模を拡大していった。朱塗りの大伽藍は今や華羅人街の象徴であり、正門東門西門それぞれの参道に店が軒を連ね、参拝の客で賑わっている。
正門の両脇には
門をくぐれば正面に大日光明金剛
風に乗って流れてくるのは読経の声と線香の匂い。幼い頃を寺で過ごした藍那には、どこか郷愁を誘う光景でもあった。
(しかし、ずいぶん簡単にたどり着いたものだね)
大きく息を吐き、聴勁で辺りを窺うが尾行している気配はない。
拍子抜けするほどなにもなく、あっさりと到着してしまった。気になることと言えば、ときおり藍那を見てひそひそと耳打ちをする人々のことくらいか。あれだけの大立回りをして派手に負けてしまった以上、仕方のないことではある。
これほどなにもないと却って不気味なのだが、考えている余裕もなくまっすぐ方丈へと足を向けた。ここの管主
箒をかけていた見習い僧に訊ねると、管主は講堂の書庫にいるとのこと。講堂には決まった時間以外参拝客は来ないので、込み入った話をするにはちょうど良かった。
見習い僧に案内され、講堂の裏口から書庫へと足を踏み入れる。狭い書庫は壁じゅうが書で埋め尽くされている。貴重な経文から比較的新しい書物まで、数え切れない文献が整然と並んでいた。
光による劣化を防ぐため、ここは窓がない。室内を照らすのは卯夏の持ち込んだ蝋燭で、そのかすかな熱がほこり臭い空気を揺らしている。
「ああ、藍那、そろそろいらっしゃる頃だと思っておりました」
目を落としていた経文から目を上げ、痩躯を振り向かせた。
禿頭に胸までかかる長い白髭。小柄のせいか、管主を示す臙脂の袈裟が不釣り合いに大きく見える。全身から威厳をただよわせ、ひさしのように垂れた眉からのぞく眼光は鋭い。
袖からのぞく皺だらけの左手甲に焼き印の跡がある。持ち主を示す頭文字は、この管主がかつて奴隷であったことの証拠だ。苦労の末に管主までのぼった人徳は本物で、信徒たちからも人望が篤い。
「蔵人からお聞きになりましたか」
「さよう、その背に負った剣のことと伺っております。はられた
「はい、このとおり」
「ここではなんです、方丈へ行きましょう。失礼ですが扉を開けていただけますかな」
藍那が扉を開けると同時に蝋燭が吹き消された。先に藍那が、続けて燭台を手にした卯夏が外へ出る。老僧は陽光に青灰色の目をすがめ、藍那を伴って方丈へ足を向け、
管主の住まいは方丈の北側。華風の中庭には竹に松に楓、苔むした庭石と小さな手水鉢が涼しげに目を楽しませる。
椅子を勧められると、天星羅を腰から抜いて傍らに立てかけた。背に負っていた布包みを卓上に置いてから、くくりつけていた紐を外す。ほどなく入ってきた見習い僧が冷たい黒茶を出した。一服すると老僧は目を細め、口を開く。
「では、現物を拝見しましょうか」
老僧は一礼し、布包みに手をかけた。
「ふむ」
短く呟くと慎重な手つきで中身を露わにする。霊符をはられた剣をじっと見つめると、両腕を組んだまましばし瞑目した。
沈黙のなか、藍那も目の前の剣を改めて観察する。柄はおそらく黒檀であろう。真鍮の剣首と剣格の細工も見事なものだ。剣首には円環を描く龍、剣格には向かい合う二匹の――おそらく雌雄の小さな龍が浮き彫りにされている。
それに比べると木鞘の方はあまりにもお粗末なのだが、かつては同じように華麗な装飾を施された鞘があったに違いない。あちこちを転々と流浪するうちに失われ、とりあえず合うものを急ごしらえであてがわれたのだろう。
「藍那」
瞑目し黙り込んでいた卯夏がようやく顔を上げ、口を開いた。
「まことに残念ですが、当尊ではこの剣は引き取りかねます」
驚きのあまり、藍那は呆然と老僧の顔を凝視する。まさか断られるとは万が一にも思っていなかったのだ。
「そ、それは……いったいどういう?」
「この霊符をはった方は振茶の拝み屋と伺いましたが、なかなかどうして良い術を使われる。この布にも霊符と同じ封魔の力が込められておりますな。おそらくこれで、しばらくはこの剣の邪悪な力は封じられるはずです」
「ですが……」
「さよう。どれほど強力な封印も時間がたてば効力は薄れます。なかに封じ込めたものが邪悪であればあるほど、その期間は短くなる。あなたはそれを心配されて、この寺に納めようと思われたのでしょう」
藍那はため息をついて頷いた。
「はい。こちらに納めて毎月管主さまに封魔の経を上げていただければ、おそらく、これ以上の厄災を振りまくことはないかと」
「賢明な判断です。ですがこれは当尊で預かるにはあまりに危険すぎる。たとえ私が封魔の術を施したとしても、油断が出来ない代物です」
「それは……何故ですか?」
藍那の問いに、卯夏は顎の白鬚をしごいた。
「このような大きな街中の寺です。いつなんどき、何があるか分かったものではありません。事実、一昨年も宝物殿に賊が入って貴重な宝物を盗られました。それ以外にも大火事、地震……あるいは戦乱」
老僧は茶を一口飲んで続ける。
「今の時代はかろうじて平和が続いておりますが……。この寺に正十字神聖帝国や華羅の軍がなだれ込んでくることは、充分に考えられます。そのとき、この剣が誰かの手に渡り、再びその邪悪な力を解き放たれる――そういったことは断じて避けねばなりません」
彼はそこで言葉を切って再び瞑目した。藍那は中庭へと目を向ける。額に浮いた汗をそっと拭い、卯夏の言葉の続きを辛抱強く待った。
卯夏はようやく眼を開き、言った。
「策はただ一つ、これを
「荒羅塔……」
「さよう。あの結界寺院なら先述のような心配とは無縁でしょう。とくに荒羅塔の結界は強力です。荒羅塔の法主である