第43話 はなむけ
文字数 3,618文字
倒壊した建物から這い出したときには、辺りは蜂の巣をつついたような大騒ぎであった。野次馬でごった返す人々は、土埃と木屑にまみれた藍那を見て悲鳴を上げた。死人が生き返ったと、本気で思ったらしい。
野次馬が注視するなか、天星羅を鞘に収めて帯剣し、髪と服に積もったちりを払う。香良楼を見上げてみれば跡形もない。しかし不思議なことに天井も壁も内側へと崩れたようで、両隣の建物には傷一つついていなかった。まるで巨大な手のひらがこの楼閣を左右から握りつぶしたようだ。
それにしても火事にならなかったのがありがたい。しかし、店を破壊された楼主の心中を慮 ると胸が痛む。蔵人の昔からの知り合いということであったが、いったい彼はどこまで了承していたものか。
そんなことをぼんやり考えながら瓦礫に佇んでいると、血相変えて飛んできた役人に捕らえられてしまった。
抵抗するいわれもないのでおとなしく牢に入り、一晩過ごす。
いろいろ訊かれると厄介だなと考えていたが、役人は一人も姿を見せず、取り調べがあるわけでもないらしい。
夜が明けると同時に出されて、迎えに来た杷萬と秧真に身柄を引き渡された。
「先生っ! もうっ、すごく心配したんですから!」
顔をくしゃくしゃにして泣き出した秧真に抱きつかれる。
「私だけじゃありません、みんな心配してるんですよ。由真だって」
「ご足労をおかけしました、お嬢さま。私はこのとおり、いたって大丈夫です」
「でも、ここ、血が出てたあとが」
「これくらいのかすり傷でしたら珍しくもありません。こないだの」
「帰ったら私がお手当して差し上げますわ。いいですわね、先生」
「はあ……」
藍那から離れようとしない秧真に、父の杷萬が苦笑する。
「いいかげん先生から離れなさい。先生、こちらを」
杷萬が手にした天星羅を差し出した。抜いて検めてみると細かな傷がついている。明日にでも晴夫 のところへ持っていかなければ。
「それにしても先生、ひどいお姿ですな」
杷萬が笑って言った。
「金亀楼に戻ったらまず湯を使うことです。お話は、それからゆっくりうかがいましょう」
* * *
しかし金亀楼についたところで、ようやく一息というわけにもいかない。
到着するなり男衆や下働きの女たちに囲まれ、建物の下敷きになったことと、牢で一晩明かしたことを口々にねぎらわれた。
香良楼が倒壊したこと、それに蔵人と藍那が関わっていることは紅籠 街じゅうに知れ渡っており、なかにはまるで見たように蔵人と藍那が壮絶な相撃ちを遂げたと触れ回るものまでいたらしい。
杷萬のひと言
――これ以上サボるようなら給金からさっ引くぞ。
でみな渋々持ち場へと引き上げたが、そのなかに由真と紫園の姿はなかった。二人はどこにいるのかと亜慈に聞いても
――おかしいな、さっきまでいたんすがねえ。
としか分からず、仕方なしにまっすぐ共同浴室へと足を向ける。
早朝ゆえ、ほかの娼妓もおらずのんびりと湯浴みをして髪を洗う。生き返った気分になるとほっと緊張が緩んだ。湯船につかって少しうとうとしていると
「先生」
と由真に声をかけられた。目を開けると両手に藍那の着替えを携えている。見下ろすその表情はどこか悲しげだ。
「ああ、由真、ごめんね、いろいろと心配かけて」
「いえ、それは構いません。いつものことですから」
「紫園はどうしている?」
「陦蘭 さんのところへ行っています。もうすぐ戻るはずです」
「陦蘭? なぜ?」
「花蓮さまからのお手紙を届けに」
「――!?」
思わず立ち上がり、由真を見つめた。
「花蓮さまからお手紙が?」
「はい、先生と陦蘭さんへ、二通。昨日、申武 が届けに来たのです」
「それはいつ?」
「先生がお出かけになって入れ違いでした。まだ城門が閉まる前で、この手紙を届けてからいそいで出立しなければいけないって」
由真から手ぬぐいを受け取り、急いで身体を拭いて下着をつける。
「申武、四日前にお母さんがとつぜん亡くなったそうです」
袴をつけていた手が動きを止めた。親孝行な少年の悲しみを思うとため息しか出てこない。
「なんてこと。申武、さぞ気落ちしていただろうね」
「はい、それで身寄りもないので、蔵人さんと花蓮さまについていくことになったのだそうです。お二人とも旅に出られるって、先生ご存じでしたか?」
それには答えず、黙って長衣に袖を通して帯を締める。
髪から滴が垂れるのもかまわず、天星羅を手に自室へと足をはやめた。途中下女たちや男衆たちと出会ったが、誰も話しかけてこなかったので、相当厳しい顔をしていたのであろう。
書き物机に手紙はあった。封蝋を開けるといつもの達筆が目に飛び込む。
事情によりしばらく帝都を留守にすることになったこと、貸してあった花言葉の本は戻るまで由真に預かっておいて欲しいこと。母を亡くした申武も連れて行くこと、そしていつか必ずどこかで会えると信じて欲しいこと――。
それら諸々が、いつもの達筆で綴られてあった。
せめてはなむけの言葉くらい、言わせて欲しかった――考えながら手紙を畳むと
「花蓮さまがね、あの本はいつかこっちに戻るときまで、由真に預かっておいて欲しいって」
顔を上げ、由真にそう告げる。由真は少し涙ぐんで答えた。
「いつかって……いつですか?」
「そう遠くない。由真がお嫁さんに行く頃には、きっと戻ってきているよ」
「そんな……私、お嫁に行くかどうかだって分からないのに。いい加減なこと言わないでください」
珍しく怒られてしまった。
「ごめん。でも大丈夫、花蓮さまは嘘をつかない方だから。それは由真だって、分かっているでしょ」
「はい……」
立ち上がり由真の肩を抱いた。背が伸びてきたとはいえ、華奢な身体はまだ充分に子どものそれだ。
「いつかまた会えたとき、由真が陦蘭みたいな錬金術師になっていれば、花蓮さま、きっと喜んでくれるわ。だからそのときまでに、由真は由真のやりたいことを頑張っていればいい」
「はい」
由真はべそを掻きながらうなずく。
無理もない。花蓮は本当に由真を可愛がってくれた。由真だってたいそう懐いていて、花蓮に会えることを楽しみにしていたのだ。それだけにこの突然の別れに困惑し、混乱しているに違いない。
離別のときは、ある瞬間、なんの前ぶれもなくやってくる――。
藍那にとってはもはや当たり前になっていることが、由真にはまだ理解できない。
扉の向こうではいつもの朝がやってきていた。
女たちが寄木細工 の床を几帳面に磨き上げる。男たちが威勢のよい声を上げ、麦袋や油壺、水瓶、海水と魚介の入った桶を運び込む。
別れがどんなに悲しくても世界はまわりつづけ、決して歩みを止めない。
「由真、そろそろ行かなきゃね。そうそうお水をもらえるかな。それから、もし台所で紫園に会ったら、午後から一緒に出かけたいと言って。ささ、ほら涙を拭いて」
懐から出した手巾で頬をぬぐってやった。由真はようやく笑顔を見せ、部屋から出て行く。とたん、どっと疲れが出て寝台に横になった。
牢の石床などかたくて寝られたものではない。やはりいつもの寝台は心地よく、そのまま夢も見ずに眠り続けた。
ようやく起きたのは真昼を過ぎてからだ。
寝ているあいだに由真が来たらしく、書き物机には水入れと杯がおかれている。濡れていた髪もとうに乾いて、結わえてから天星羅を帯刀した。
「さて、出かけるか」
己を奮い立たせるようにつぶやく。そうして考えた。
蔵人と花蓮と申武――。
彼らはいま、どこを旅しているのだろう。
* * *
藍那は紫園を伴い、華羅人街にある《狼々軒》へと赴 いた。たどり着いたときは人足たちがなかのものを運び出しているところで、狭い入り口から木箱が次々と持ち出される。
箱に入りきらない大きな鉾を抱えた人足が、藍那の顔を見るなり日に焼けた顔をほころばせた。
「どうです先生、お一つ買っちゃあ」
初めて見る顔だが、どうやら向こうはこっちを知っているらしい。
「これだけ大きいと、さすがに私の手には余るね。ところでこの品々はいったいどうなるんだ?」
「もちろん、ここの新しい持ち主が売りに出すんでさあ」
「新しい持ち主って」
「先生がゆんべ命からがら這い出してきた、香良楼の楼主……おっと元楼主か、ようは店を壊された弁償にこの店をもらい受けたってことで」
「楼主の名は?」
「緋霧 。なかに居ますんで会っちゃどうです」
「ありがとう、邪魔するよ。紫園、行こう」
野次馬が注視するなか、天星羅を鞘に収めて帯剣し、髪と服に積もったちりを払う。香良楼を見上げてみれば跡形もない。しかし不思議なことに天井も壁も内側へと崩れたようで、両隣の建物には傷一つついていなかった。まるで巨大な手のひらがこの楼閣を左右から握りつぶしたようだ。
それにしても火事にならなかったのがありがたい。しかし、店を破壊された楼主の心中を
そんなことをぼんやり考えながら瓦礫に佇んでいると、血相変えて飛んできた役人に捕らえられてしまった。
抵抗するいわれもないのでおとなしく牢に入り、一晩過ごす。
いろいろ訊かれると厄介だなと考えていたが、役人は一人も姿を見せず、取り調べがあるわけでもないらしい。
夜が明けると同時に出されて、迎えに来た杷萬と秧真に身柄を引き渡された。
「先生っ! もうっ、すごく心配したんですから!」
顔をくしゃくしゃにして泣き出した秧真に抱きつかれる。
「私だけじゃありません、みんな心配してるんですよ。由真だって」
「ご足労をおかけしました、お嬢さま。私はこのとおり、いたって大丈夫です」
「でも、ここ、血が出てたあとが」
「これくらいのかすり傷でしたら珍しくもありません。こないだの」
「帰ったら私がお手当して差し上げますわ。いいですわね、先生」
「はあ……」
藍那から離れようとしない秧真に、父の杷萬が苦笑する。
「いいかげん先生から離れなさい。先生、こちらを」
杷萬が手にした天星羅を差し出した。抜いて検めてみると細かな傷がついている。明日にでも
「それにしても先生、ひどいお姿ですな」
杷萬が笑って言った。
「金亀楼に戻ったらまず湯を使うことです。お話は、それからゆっくりうかがいましょう」
* * *
しかし金亀楼についたところで、ようやく一息というわけにもいかない。
到着するなり男衆や下働きの女たちに囲まれ、建物の下敷きになったことと、牢で一晩明かしたことを口々にねぎらわれた。
香良楼が倒壊したこと、それに蔵人と藍那が関わっていることは
杷萬のひと言
――これ以上サボるようなら給金からさっ引くぞ。
でみな渋々持ち場へと引き上げたが、そのなかに由真と紫園の姿はなかった。二人はどこにいるのかと亜慈に聞いても
――おかしいな、さっきまでいたんすがねえ。
としか分からず、仕方なしにまっすぐ共同浴室へと足を向ける。
早朝ゆえ、ほかの娼妓もおらずのんびりと湯浴みをして髪を洗う。生き返った気分になるとほっと緊張が緩んだ。湯船につかって少しうとうとしていると
「先生」
と由真に声をかけられた。目を開けると両手に藍那の着替えを携えている。見下ろすその表情はどこか悲しげだ。
「ああ、由真、ごめんね、いろいろと心配かけて」
「いえ、それは構いません。いつものことですから」
「紫園はどうしている?」
「
「陦蘭? なぜ?」
「花蓮さまからのお手紙を届けに」
「――!?」
思わず立ち上がり、由真を見つめた。
「花蓮さまからお手紙が?」
「はい、先生と陦蘭さんへ、二通。昨日、
「それはいつ?」
「先生がお出かけになって入れ違いでした。まだ城門が閉まる前で、この手紙を届けてからいそいで出立しなければいけないって」
由真から手ぬぐいを受け取り、急いで身体を拭いて下着をつける。
「申武、四日前にお母さんがとつぜん亡くなったそうです」
袴をつけていた手が動きを止めた。親孝行な少年の悲しみを思うとため息しか出てこない。
「なんてこと。申武、さぞ気落ちしていただろうね」
「はい、それで身寄りもないので、蔵人さんと花蓮さまについていくことになったのだそうです。お二人とも旅に出られるって、先生ご存じでしたか?」
それには答えず、黙って長衣に袖を通して帯を締める。
髪から滴が垂れるのもかまわず、天星羅を手に自室へと足をはやめた。途中下女たちや男衆たちと出会ったが、誰も話しかけてこなかったので、相当厳しい顔をしていたのであろう。
書き物机に手紙はあった。封蝋を開けるといつもの達筆が目に飛び込む。
事情によりしばらく帝都を留守にすることになったこと、貸してあった花言葉の本は戻るまで由真に預かっておいて欲しいこと。母を亡くした申武も連れて行くこと、そしていつか必ずどこかで会えると信じて欲しいこと――。
それら諸々が、いつもの達筆で綴られてあった。
せめてはなむけの言葉くらい、言わせて欲しかった――考えながら手紙を畳むと
「花蓮さまがね、あの本はいつかこっちに戻るときまで、由真に預かっておいて欲しいって」
顔を上げ、由真にそう告げる。由真は少し涙ぐんで答えた。
「いつかって……いつですか?」
「そう遠くない。由真がお嫁さんに行く頃には、きっと戻ってきているよ」
「そんな……私、お嫁に行くかどうかだって分からないのに。いい加減なこと言わないでください」
珍しく怒られてしまった。
「ごめん。でも大丈夫、花蓮さまは嘘をつかない方だから。それは由真だって、分かっているでしょ」
「はい……」
立ち上がり由真の肩を抱いた。背が伸びてきたとはいえ、華奢な身体はまだ充分に子どものそれだ。
「いつかまた会えたとき、由真が陦蘭みたいな錬金術師になっていれば、花蓮さま、きっと喜んでくれるわ。だからそのときまでに、由真は由真のやりたいことを頑張っていればいい」
「はい」
由真はべそを掻きながらうなずく。
無理もない。花蓮は本当に由真を可愛がってくれた。由真だってたいそう懐いていて、花蓮に会えることを楽しみにしていたのだ。それだけにこの突然の別れに困惑し、混乱しているに違いない。
離別のときは、ある瞬間、なんの前ぶれもなくやってくる――。
藍那にとってはもはや当たり前になっていることが、由真にはまだ理解できない。
扉の向こうではいつもの朝がやってきていた。
女たちが
別れがどんなに悲しくても世界はまわりつづけ、決して歩みを止めない。
「由真、そろそろ行かなきゃね。そうそうお水をもらえるかな。それから、もし台所で紫園に会ったら、午後から一緒に出かけたいと言って。ささ、ほら涙を拭いて」
懐から出した手巾で頬をぬぐってやった。由真はようやく笑顔を見せ、部屋から出て行く。とたん、どっと疲れが出て寝台に横になった。
牢の石床などかたくて寝られたものではない。やはりいつもの寝台は心地よく、そのまま夢も見ずに眠り続けた。
ようやく起きたのは真昼を過ぎてからだ。
寝ているあいだに由真が来たらしく、書き物机には水入れと杯がおかれている。濡れていた髪もとうに乾いて、結わえてから天星羅を帯刀した。
「さて、出かけるか」
己を奮い立たせるようにつぶやく。そうして考えた。
蔵人と花蓮と申武――。
彼らはいま、どこを旅しているのだろう。
* * *
藍那は紫園を伴い、華羅人街にある《狼々軒》へと
箱に入りきらない大きな鉾を抱えた人足が、藍那の顔を見るなり日に焼けた顔をほころばせた。
「どうです先生、お一つ買っちゃあ」
初めて見る顔だが、どうやら向こうはこっちを知っているらしい。
「これだけ大きいと、さすがに私の手には余るね。ところでこの品々はいったいどうなるんだ?」
「もちろん、ここの新しい持ち主が売りに出すんでさあ」
「新しい持ち主って」
「先生がゆんべ命からがら這い出してきた、香良楼の楼主……おっと元楼主か、ようは店を壊された弁償にこの店をもらい受けたってことで」
「楼主の名は?」
「
「ありがとう、邪魔するよ。紫園、行こう」