第33話 帰るべき場所

文字数 3,432文字


 たしかにそうかもしれない。だが行くにしたって問題は山積みだ。
 荒羅塔はここから遙か西、多島海(ベラゴ)の洋上に浮かぶ孤島である。行くには簡舵(エラダ)の港・浦野(ウラノ)から船で行くしかない。その船も三日に一度の往復のみ、寺院に塩や米を納める船に同乗させてもらうのだ。

 そして結界寺院は徹底的に俗世とのかかわりを()っている。出家した僧侶ならともかく、信徒でもないものがのこのこ行っても門前払いをくらうだけではないのか。
 そう危惧する藍那の心を読んだかのように、卯夏は言った。

「たしかに俗世とのかかわりを断っているとはいっても、そこは臨機応変。とくにこのような邪悪な力を封じるとなれば、必ず助けになってくれるはずです。とくに回龍さまは歴代の法主のなかでも砕けたお人柄であられる」
「はい、存じ上げております」

 藍那の返事に今度は老僧が驚き、目を()く。

「なんと、回龍さまのことを存じていると」
「はい。まだ幼い頃ですが、宮栄(クヴァ)の寺に母と世話になっておりました。寺の名前は確か……《和等尊(ワトソン)》と……」
「《和等尊》なら存じております。風光明媚な場所にある古刹と聞き及んでおりますが」
「はい。緑豊かな良いところでした。私が物心ついたときにはその寺で暮らしていて、そのときの管主が回龍(パウロ)さまだったのです。五つくらいに母と出て行くまで、ずいぶんと可愛がってもらいました」
「そうでありましたか。それでは話は早い」

 卯夏はうなずき目の前の剣を包み直した。

「万全を期して、前もって私の方からも書簡を出しておきましょう。しかし今すぐにというわけにいかないのが、なんとも間が悪いことですな」
「それは、いったいどういう?」

 明日にでも荒羅塔に向けて出発したい――そう意気込んでいたのに出鼻をくじかれてしまった。怪訝な表情の藍那に卯夏は答える。

「荒羅塔は次の新月から小齋(しょうさい)に入ります。小齋と大齋(たいさい)のふた月のあいだ、浦野(ウラノ)からの船は出ません。今から出立されても間に合わないでしょう」
「小齋……そうでしたか」

 考えてみれば次の新月まで七日もない。どれだけ急いでも荒羅塔までは十日あまり。

「このような俗世にある寺であれば、小斎は簡略化されております。が、結界寺院において、長らく続いた伝統は守らなければなりません。大斎が明けるのはふた月後――蠍月の新月です。残念ですがそれまでは待たねばなりません」
「ふた月……そのあいだこの剣は、こちらの寺に?」
「いえ、それはあまりおすすめできません。霊符(ふだ)で力を封じているとはいえ、用心するならあなたの傍にあった方がよろしいでしょう。あなたのその剣……」

 藍那の傍に立てかけた天星羅を一瞥し、老僧はあごひげに手をやった。

「蔵人の話によれば、その剣には邪を祓う不思議な力があるとか」
「ええ、まあ……」
「なれば、下手にこの寺に預けるよりも金亀楼に置いていた方がよろしい。できれば信頼できる心に汚れのないものに託して、人目につかない場所に隠してもらうことです。その場所はあなたにも秘密にしておけば、より安心でしょう」
「心に汚れのないもの、ですか」

 同じ屋根の下に住んでいて、信頼できる心に汚れのない人間。心当たりは二人いる。
 それにしてもふた月とはずいぶん先だ。あと一週間ちょっとで乙女月。
 乙女月の二十三日は満月で、この日から奥尔罕は断食月(サウム)に入る。断食月が明けるのは天秤月の満月。それから三日間は断食明けの感謝祭があり、阿耶(アヤ)は昼夜の境なく賑わうのだ。

 荒羅塔の大斎が明けるのは感謝祭から十日あまり。つまり感謝祭が終わって出立するのが一番良いのだろう。そのあいだに旅装を整えるなどすれば良い。
 さきほどの見習い僧が再び茶を運んできた。銚子から冷えた黒茶を注ぎ、一礼して去って行く。卯夏は目を細め器に手を伸ばしながら口を開いた。

「せっかく来ていただきましたが、お役に立てず申し訳ありません」
「いいえ、荒羅塔に納めることは考えが及びませんでした。それを教えていただけただけで充分です」

 冷たい茶を干してから方丈をあとにした。
 大門を抜け、表参道を通って華羅人街を抜ける。道すがら背中に負った剣を託す相手のことを考えた。金亀楼に寝泊まりし、心に汚れのない信頼できる人物。
 金亀楼にたどり着くと、藍那はまっすぐ(ハレム)にある秧真(ナエマ)の部屋へと向かった。

 ***

「私がこれを? 預かればよろしいのですか?」

 まるく目を見張った秧真に藍那は頷いた。

「訳あってこの剣は荒羅塔の結界寺院に納めることになったのですが、出立までのふた月ばかりお願いしたいのです。この布に包んだまま、なるべく人目に触れない場所にしまって下さい。そしてできれば、私にもその場所は秘密にしていただきたい」
「はあ……」

 卓上に置かれた布包みと藍那と交互に見て、秧真は首をかしげた。

「でもたしか、この剣を納めに《大尊》にお出かけになったのでしょう。結局預かってはいただけなかったのですか」
「はい、それについては事情がありまして。とても大切なお願いなのですが、頼めるのはお嬢さましかいないのです」
「私……だけ……」

 そう呟くと秧真の顔に花が開いたように笑みが広がった。はす向かいに座っていた藍那へと身を乗り出し、

「本当ですか先生? 私だけ?」

 と嬉しそうに訊ねる。

「本当のことです。これは心から信頼できる人にしかお願いできません。いろいろ考えた末、お嬢さましか思い当たらなかったのです」

 由真に託すことも考えたが、使用人という立場上出入りのかなわぬ場所がある。もし隠したとしても、他の使用人に見つけられる可能性もあった。
 その点秧真なら安心だ。奥なら人の出入りは限られるし、主家の人間しか入れない場所もある。

「先生、ありがとうございます。こんなに大切なお役目を与えてくださって」

 上気した頬がまるで花びらのようだ。

「しかしご迷惑をおかけしたのではないでしょうか」

 かぶりを振ると藍那の両手を握りしめ、秧真は決意を込めた目で言った。

「先生に託されたのですもの、迷惑だなんて。仰るとおり誰の目にも触れない場所に隠しておきますわ。父にも分からない場所です。どうか大船に乗った気持ちでいてくださいな」

 こぶしで誇らしげに自分の胸を叩いてみせる。こんなに喜んでもらえるとは意外だったが、快諾してくれてなによりだった。

「それはたいへん頼もしい。感謝いたします」
「私と先生のあいだでそんな他人行儀なこと仰らないで。でも先生、いつ荒羅塔にお()ちになるんですの」
「感謝祭がすんだらにしようかと。祭りのあいだはなにかと騒々しいですからね」
「戻ってきて……くださるのですよね?」

 心配そうに訊ねた秧真に不思議な気持ちがした。
 藍那としては当然ながら戻ってくるつもりであったが、考えてみれば雇われ用心棒の気軽な身の上である。そのまま簡舵(エラダ)か羅典に行くことも出来るはずで、事実この阿耶にくるまではそんな風にあちこちを流れてきたのではなかったか。

「もちろんです。由真のこともありますからね、まだまだご厄介にならなければ」
「先生ったら、遠慮なさらないでください。ここはもう先生の家のようなものではありませんか」

 屈託のない笑みを浮かべる秧真がまぶしかった。彼女の言葉をそのまま受け取るには嫌なことを見過ぎてしまったのかもしれない。でももしかしたら根無し草の自分にもようやく帰るべき場所が出来つつあるのだろうか。
 そんなことを考えて藍那もまたうなずき、微笑み返した。遠くから聞こえる曾妃耶寺院の鐘が夕刻の祈りを告げる。

「私は先生、いつだって先生の味方ですわ。先生の身をお守りするためなら、どんなことだってします」

 秧真はそう言って恥ずかしそうに目を伏せた。

「それは頼もしいですね。でもあまりご無理をなさらないでくださいよ。なんといってもお嫁入り前の大切なお体なのですから」

 藍那がそう言って笑う。しかし秧真はそれには答えず寂しげな笑みを浮かべ、無言で日よけをかけられた窓の方へ視線をやった。

 第四章に続く
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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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