第64話 紫色(ししょく)の煉獄
文字数 4,432文字
影──。
目が捕らえたのは、その程度の認識だった。その影がどうやって剣を取り返し抜いたのか、分からぬままに、血しぶきが視界を赤く染める。
血柱を吹きあげた警邏たち、視野の端に転がる二つの首を認めたときは、何もかもが手遅れだった。
翻 りつつ影が返す刃は、圓湖 と苫栖 、下女二人を切り裂いていた。赤錆臭い血の匂いと、臓物特有の饐えた汚物臭が、一気にあたりへ充満する。
「みんな、逃げろ!」
振り向きざまに、ありったけの声で叫んだ。
「逃げて、早く!」
困惑と恐怖で呆けた表情の由真へ、手を伸ばしたとき。
眼前を火花が散った。
全身を叩きつけられる衝撃とともに、全てが闇に閉ざされる。
***
激痛が、藍那の意識を引き戻した。
下腹を貫かれる感覚とそれに伴う凄まじい痛み。叫ぼうとしても息が苦しくなり、かすれた声しか出てこない。視界は血に赤く霞んで、ほとんど何も見えなかった。
ぼんやりとした影が、藍那に覆いかぶさっている。絶望的な状況をどうすることも出来なかった。影は掴んだ手首を床に押し付け、むき出しになった藍那の下腹を貫き、抉 ってはまた貫く。
何度も何度も何度も何度も――――。
その度に声にならない悲鳴を上げる。幾度か気を失いかけ、苦痛にまた引き戻された。溢れだした涙が血を洗い流しても、また新たな血が降り注いで、視界を赤く汚していく。
永遠に続くかと思われる責め苦の時。
ほどなく、藍那は呻 くことすら出来なくなった。ただこの悪夢のような時間が早く終わってほしい、ただそれだけを望んだ。
いや、いっそのこと殺してほしいと――。
やがて動きが止まり、血糊で粘ついた指が、藍那の喉元へと食い込んでくる。
激痛にあえぎ、息も絶え絶えになりながら、それでも恐怖にもがいて抵抗した。だが、もがけばもがくほど呼吸 ができなくなる。脳髄が沸騰し、潮騒めいた音が耳の奥でうるさく響く。
――ここで死ぬのか。
もうだめだと全身の力が抜けた。諦めたとき、ふと、食い込んだ指が緩んだのが分かった。
(――!?)
思わず目を見開けば、視界いっぱいに紫の双眸が飛び込む。熾火 のように輝くそれは、人の目ではなかった。
紫色 の炎を宿す瞳の奥で、無数の黒い何かが蠢 いている。焼け焦げた皮膚は男女の判別もつかず、ひどく曲がった指先が、なにかを掴むように宙に踊る。
それが何であるのか、藍那には分かった。
彼らはこの魔剣の贄 になったものたちの魂。永遠の灼熱地獄に閉ざされ、悶え狂う、犠牲者たちの成れの果て。
煉獄の炎はいままさに、火勢を増して藍那を呑みこもうとしていた。
唇を歪め影が笑う。藍那は再び気を失った。
***
――先生、もう朝ですよ。いいかげん起きて下さい。
遠くから由真の声が聞こえた気がして、うっすらと目を開けた。寝台の天蓋は精緻な蔦模様が施されているが、今はそれも濃紺の闇に沈んでいる。あたりからは物音一つ聞こえず、枕に顔を押し当てたまま、じっと耳を澄ませた。
扉の外であの音が、廊下を拭くせわしない足音が聞こえるのを待つ。なにしろ由真ときたら、バタバタと踏み抜きそうな勢いで床を蹴るのだから。
そうしたら自分はようやく起き上がり、
――おはよう、今日も元気ね。
板戸を開け、眠い目をこすりながら言う。顔を上げた由真はいつもの調子で答えるだろう。
――おはようございます! 先生!
あの、生まれたての小スズメのような朗らかさで。
そのとき、裏庭で鶏が鳴いて、夜明けが近いことを知らせた。紅籠 街では聞くことのなかった鶏声 は、ここが金亀楼ではないという事実を藍那に突きつける。
そうだ――ここは金亀楼ではない、慈衛堵の屋敷なのだ、と。
金亀楼とそこで過ごした日々は、過去のものになった。
帝都一の上楼と誉め称えられたのは、わずか半年ほど前のこと。今は不吉そのものとして恐れられ、人はその名を決して口にしようとはしない。
誰もが憧れた、上楼の証である朱塗りの扉。その扉も鉄鎖と錠前で封じられ、侵入者を固く拒んでいる。
美しかった寄木細工 の廊下も、乾いた血の染みで黒ずんでいるだろう。亜慈が守り、夜間を除いて火を絶やすことのなかった竈 には、大きな蜘蛛の巣が張っているはずだ。
また鶏が鳴いた。
室内の闇が徐々に薄らいで、空が白み始めているのがわかる。ようやく枕から顔を上げ、絹地の掛布をはいで、裸足で床へ降りた。柔らかな羅紗の絨毯を踏みしめ、窓へと近づき、鎧戸を上げる。
窓からは、屋敷自慢の花園が一望できる。夜気を含んだ風は、冷たいが心地よかった。雨季ももう終わりだが、夜中に雨が降ったらしい。瑞々しい新緑と花の芳香が、水の匂いと混じり合ってあたりに満ちていた。
今は花の盛り。赤や白のバラが、硬い蕾を膨らませる。隣では一足早く咲いた芍薬や牡丹が、白や黄色の大輪を誇っていた。
花々が妍 を競う庭から視線を上げる。空は今、藍色から柔らかな紫へと色を変えつつあった。高みには細い三日月が、明るさを増す上空にその輪郭をうっすら溶かしていく。
視線を再び花園にもどし、中央で水を噴き上げる大噴水を眺めた。
祭りの日、《彼》が自分を待っていた噴水は、あの時となにも変わっていない。青銅の女神像が掲げる壺と、そこからほとばしる豊かな水流。
一方、金亀楼の噴水といえば――。
水門が閉ざされ、干上がった水盤には、今ごろびっしりと落葉が詰まっている。頂きに座す海神 も、空の壺を抱えたまま、どこか所在なさげに姦 しい鳥の声を聞いているはずだ。
苦い思いが腹の底からせり上がって、息を大きく吸って吐いた。寝台へと戻り、天星羅を手にとって靴を履く。扉を開け、寄木細工 の廊下を歩いて階段を降りた。下働きの女たちが、盥 を手に、にこやかに話しかける。
「おはようございます、先生」
「今日はお早いですね」
「今朝は顔色が一層よろしいですね」
中庭へ続く扉を開け、素焼き煉瓦を踏んだ。震脚で噴水へと一気に駆け、水盤の縁石を蹴って背中から高く跳躍する。宙へと舞い上がった身体をしならせ、落下しながら、天星羅を抜きざま、迸る水流を一閃した。
着地し、右へと払った抜き身を眺める。剣先が裂いて玉となった滴は、ほのかに発光する剣身を滑り、木漏れ陽にきらめきながら地へとしたたり落ちた。
(ようやく、ここまで来ることが出来た)
起式の動作を略し、そのまま《散華》の套路へと入った。
挑剣から崩剣、そしてまた挑剣。
跳ね上げては振り下ろし、また跳ね上げる。点剣で眉間を素早く突き、続けて抹剣で引き戻しては、崩剣の動作で敵の剣を弾きあげる。
藍那の足が地を蹴って、ひらりと宙を飛んだ。しなった身体が着地と同時に反転、截 剣で相手の動きを止めながら、振り向きざまに切り上げる。続けて三度斬り上げ、素早い突きを――。
――十一番から十二番へかけて、動作が早すぎる。次の動作へ早く行こうと焦りすぎて、截剣がおろそかになっている。
脳裏に《彼》の言葉が響く。
――截剣は敵の動きを止めると同時に、相手を崩す。ちゃんとやれば、向こうが自分から崩れてくれるんだ。焦って斬ろうとするな。
突きから背後へと旋転、その勢いを剣にのせながら、地すれすれへと振り下ろす。流れた勁が素焼き煉瓦を伝い、硬いはずの表面に細かなひびを生じさせた。
今、天星羅と藍那は完全に一つとなり、互いに共鳴している。あの惨劇から半年あまり、ここまでの道は、まさに血を吐くような苦しみの連続であった。
寝台からようやく離れたのが三 月前だ。一人で歩けるようになり、套路を打てるようになったのが、今からわずかふた月ほど前のこと。それからは雨の日も風の日もひたすら剣を振り続け、時が来るのをひたすら待った。
まさに臥薪嘗胆、脇目もふらず、己の刃を研ぎつづけた雌伏の時。しかし、その日々も明日で終わろうとしている。
套路を終え、天星羅を鞘へと収めた。
(明日……か……)
部屋へ戻ると杏奈 が待っていた。既に朝餉の席は整っている。
この屋敷の朝食はいつも豪華だ。果物を煮詰めた果酱 と乳酪 。生蘇 を香草と一緒に巻いて揚げた春巻き。溶かした黄油 がしたたり落ちる焼きたての饢 と、細かく砕いた榛実 、干した棗椰子 に、塩漬けの橄実 。
そして皿いっぱいに盛られた、つややかな赤が目に眩しい桜桃も。
桜桃は由真が好きだった。
「おはようございます、先生。今日も見事な套路でしたね」
「ありがとう」
衝立の陰で夜着と下着を脱ぎ、用意された盥 と手ぬぐいで汗を拭った。きれいに洗濯された下着にも長衣にも、丁寧にのりがつけられている。着替えて敷布へと腰を下ろし、杏奈が差し出した薄荷茶に口をつけた。
藍那は黙々と食事をし、杏奈もあえて話しかけようとはしない。出されたものをきれいに平らげ、手を洗い、再び薄荷茶に口をつけた時、杏奈がようやく口を開いた。
「もう雨季も終わりですね。明日も明後日も、いいお天気だそうですよ」
「そうですか」
「出立には良いでしょうね。塁 さんは、明日ご到着ですか」
「予定では。風向きによっては、もしかしたら明後日かも……」
杏奈は藍那から視線をそらした。窓の外を見つめながら訊ねる。
「お嬢さまには、なにも言わずに、お発ちになるのですか?」
藍那は黙って茶を口に含んだ。窓の外では鳥がさえずり、庭師が誰かを呼んでいる。しばしの沈黙の後、藍那も窓の外へと視線を投げた。
雲ひとつない蒼穹の、吸い込まれそうなほど澄んだ青。否応なしに、あの日、鐘楼で《彼》と眺めた空を思い出してしまう。
「言って、お嬢さまに『行かないでほしい』と泣かれたら、決意が揺らいでしまうような気がするのです。だから……」
「そうですか」
杏奈は言葉を飲み込むように、そっとため息をついた。
藍那は無言で、部屋の東側にある書き物机を眺める。机上には、油紙に包まれ、紐を掛けられたままの手鏡が置かれていた。紐はこびりついた血糊のせいで、黒く変色してしまっている。
贈るはずだった相手の少女は、今はもういない。
金亀楼で起きた惨劇で生き残ったのは、藍那と秧真の二人だけだ。
《彼》を告発した柴門の死体は見つからず、未だに行方がしれなかった。
目が捕らえたのは、その程度の認識だった。その影がどうやって剣を取り返し抜いたのか、分からぬままに、血しぶきが視界を赤く染める。
血柱を吹きあげた警邏たち、視野の端に転がる二つの首を認めたときは、何もかもが手遅れだった。
「みんな、逃げろ!」
振り向きざまに、ありったけの声で叫んだ。
「逃げて、早く!」
困惑と恐怖で呆けた表情の由真へ、手を伸ばしたとき。
眼前を火花が散った。
全身を叩きつけられる衝撃とともに、全てが闇に閉ざされる。
***
激痛が、藍那の意識を引き戻した。
下腹を貫かれる感覚とそれに伴う凄まじい痛み。叫ぼうとしても息が苦しくなり、かすれた声しか出てこない。視界は血に赤く霞んで、ほとんど何も見えなかった。
ぼんやりとした影が、藍那に覆いかぶさっている。絶望的な状況をどうすることも出来なかった。影は掴んだ手首を床に押し付け、むき出しになった藍那の下腹を貫き、
何度も何度も何度も何度も――――。
その度に声にならない悲鳴を上げる。幾度か気を失いかけ、苦痛にまた引き戻された。溢れだした涙が血を洗い流しても、また新たな血が降り注いで、視界を赤く汚していく。
永遠に続くかと思われる責め苦の時。
ほどなく、藍那は
いや、いっそのこと殺してほしいと――。
やがて動きが止まり、血糊で粘ついた指が、藍那の喉元へと食い込んでくる。
激痛にあえぎ、息も絶え絶えになりながら、それでも恐怖にもがいて抵抗した。だが、もがけばもがくほど
――ここで死ぬのか。
もうだめだと全身の力が抜けた。諦めたとき、ふと、食い込んだ指が緩んだのが分かった。
(――!?)
思わず目を見開けば、視界いっぱいに紫の双眸が飛び込む。
それが何であるのか、藍那には分かった。
彼らはこの魔剣の
煉獄の炎はいままさに、火勢を増して藍那を呑みこもうとしていた。
唇を歪め影が笑う。藍那は再び気を失った。
***
――先生、もう朝ですよ。いいかげん起きて下さい。
遠くから由真の声が聞こえた気がして、うっすらと目を開けた。寝台の天蓋は精緻な蔦模様が施されているが、今はそれも濃紺の闇に沈んでいる。あたりからは物音一つ聞こえず、枕に顔を押し当てたまま、じっと耳を澄ませた。
扉の外であの音が、廊下を拭くせわしない足音が聞こえるのを待つ。なにしろ由真ときたら、バタバタと踏み抜きそうな勢いで床を蹴るのだから。
そうしたら自分はようやく起き上がり、
――おはよう、今日も元気ね。
板戸を開け、眠い目をこすりながら言う。顔を上げた由真はいつもの調子で答えるだろう。
――おはようございます! 先生!
あの、生まれたての小スズメのような朗らかさで。
そのとき、裏庭で鶏が鳴いて、夜明けが近いことを知らせた。
そうだ――ここは金亀楼ではない、慈衛堵の屋敷なのだ、と。
金亀楼とそこで過ごした日々は、過去のものになった。
帝都一の上楼と誉め称えられたのは、わずか半年ほど前のこと。今は不吉そのものとして恐れられ、人はその名を決して口にしようとはしない。
誰もが憧れた、上楼の証である朱塗りの扉。その扉も鉄鎖と錠前で封じられ、侵入者を固く拒んでいる。
美しかった
また鶏が鳴いた。
室内の闇が徐々に薄らいで、空が白み始めているのがわかる。ようやく枕から顔を上げ、絹地の掛布をはいで、裸足で床へ降りた。柔らかな羅紗の絨毯を踏みしめ、窓へと近づき、鎧戸を上げる。
窓からは、屋敷自慢の花園が一望できる。夜気を含んだ風は、冷たいが心地よかった。雨季ももう終わりだが、夜中に雨が降ったらしい。瑞々しい新緑と花の芳香が、水の匂いと混じり合ってあたりに満ちていた。
今は花の盛り。赤や白のバラが、硬い蕾を膨らませる。隣では一足早く咲いた芍薬や牡丹が、白や黄色の大輪を誇っていた。
花々が
視線を再び花園にもどし、中央で水を噴き上げる大噴水を眺めた。
祭りの日、《彼》が自分を待っていた噴水は、あの時となにも変わっていない。青銅の女神像が掲げる壺と、そこからほとばしる豊かな水流。
一方、金亀楼の噴水といえば――。
水門が閉ざされ、干上がった水盤には、今ごろびっしりと落葉が詰まっている。頂きに座す
苦い思いが腹の底からせり上がって、息を大きく吸って吐いた。寝台へと戻り、天星羅を手にとって靴を履く。扉を開け、
「おはようございます、先生」
「今日はお早いですね」
「今朝は顔色が一層よろしいですね」
中庭へ続く扉を開け、素焼き煉瓦を踏んだ。震脚で噴水へと一気に駆け、水盤の縁石を蹴って背中から高く跳躍する。宙へと舞い上がった身体をしならせ、落下しながら、天星羅を抜きざま、迸る水流を一閃した。
着地し、右へと払った抜き身を眺める。剣先が裂いて玉となった滴は、ほのかに発光する剣身を滑り、木漏れ陽にきらめきながら地へとしたたり落ちた。
(ようやく、ここまで来ることが出来た)
起式の動作を略し、そのまま《散華》の套路へと入った。
挑剣から崩剣、そしてまた挑剣。
跳ね上げては振り下ろし、また跳ね上げる。点剣で眉間を素早く突き、続けて抹剣で引き戻しては、崩剣の動作で敵の剣を弾きあげる。
藍那の足が地を蹴って、ひらりと宙を飛んだ。しなった身体が着地と同時に反転、
――十一番から十二番へかけて、動作が早すぎる。次の動作へ早く行こうと焦りすぎて、截剣がおろそかになっている。
脳裏に《彼》の言葉が響く。
――截剣は敵の動きを止めると同時に、相手を崩す。ちゃんとやれば、向こうが自分から崩れてくれるんだ。焦って斬ろうとするな。
突きから背後へと旋転、その勢いを剣にのせながら、地すれすれへと振り下ろす。流れた勁が素焼き煉瓦を伝い、硬いはずの表面に細かなひびを生じさせた。
今、天星羅と藍那は完全に一つとなり、互いに共鳴している。あの惨劇から半年あまり、ここまでの道は、まさに血を吐くような苦しみの連続であった。
寝台からようやく離れたのが
まさに臥薪嘗胆、脇目もふらず、己の刃を研ぎつづけた雌伏の時。しかし、その日々も明日で終わろうとしている。
套路を終え、天星羅を鞘へと収めた。
(明日……か……)
部屋へ戻ると
この屋敷の朝食はいつも豪華だ。果物を煮詰めた
そして皿いっぱいに盛られた、つややかな赤が目に眩しい桜桃も。
桜桃は由真が好きだった。
「おはようございます、先生。今日も見事な套路でしたね」
「ありがとう」
衝立の陰で夜着と下着を脱ぎ、用意された
藍那は黙々と食事をし、杏奈もあえて話しかけようとはしない。出されたものをきれいに平らげ、手を洗い、再び薄荷茶に口をつけた時、杏奈がようやく口を開いた。
「もう雨季も終わりですね。明日も明後日も、いいお天気だそうですよ」
「そうですか」
「出立には良いでしょうね。
「予定では。風向きによっては、もしかしたら明後日かも……」
杏奈は藍那から視線をそらした。窓の外を見つめながら訊ねる。
「お嬢さまには、なにも言わずに、お発ちになるのですか?」
藍那は黙って茶を口に含んだ。窓の外では鳥がさえずり、庭師が誰かを呼んでいる。しばしの沈黙の後、藍那も窓の外へと視線を投げた。
雲ひとつない蒼穹の、吸い込まれそうなほど澄んだ青。否応なしに、あの日、鐘楼で《彼》と眺めた空を思い出してしまう。
「言って、お嬢さまに『行かないでほしい』と泣かれたら、決意が揺らいでしまうような気がするのです。だから……」
「そうですか」
杏奈は言葉を飲み込むように、そっとため息をついた。
藍那は無言で、部屋の東側にある書き物机を眺める。机上には、油紙に包まれ、紐を掛けられたままの手鏡が置かれていた。紐はこびりついた血糊のせいで、黒く変色してしまっている。
贈るはずだった相手の少女は、今はもういない。
金亀楼で起きた惨劇で生き残ったのは、藍那と秧真の二人だけだ。
《彼》を告発した柴門の死体は見つからず、未だに行方がしれなかった。