第59話 明かされた過去
文字数 3,640文字
東広場の見世物小屋は、大賑わいであった。
色鮮やかな衣装に身を包んだ、軽業師や踊り子。彼らが手綱を引く、珍しい動物たち。象に獅子、首の長い鳥に、縞模様のある馬。金色の長い毛が美しい猿もいる。
調教された獣たちは、見事な芸を披露した。
火が燃え盛る輪をくぐる獅子。後ろ足で立ちながら、革製の球を鼻にのせる象。猿は天井から下がった綱から綱へと、身軽に飛び移る。
そのたび大きな歓声が上がるのだが、藍那の耳には、どこか遠い世界のように聞こえた。
紫園が買ってくれた油餅 を頬張りながら、考える
韋蛮 が入った浴場 に、遅れて柴門が入った。これは単なる偶然だろうか。
藩座 によれば、柴門は蟑螂 通りにある彼の住まいを訪ねている。すでに韋蛮はどこかへ逐電 していたが、向かいの老女に、戻ったら教えてほしいと金まで渡していた。
韋蛮が戻ったことを知った柴門が、浴場 で彼との接触を試みる――その可能性は十分にあった。
目的はただ一つ、紫園の過去を探るため。
もし柴門がすべてを知ってしまったら……。暗澹たる思いで、藍那は小さくため息をついた。
泉李 の商人・巧瑠 の専属画家だった迭戈 。
彼が屋敷に火を放ち、宝物庫から剣を盗んで逃亡した――。それらは、すべて憶測でしかない。しかし、それを柴門の口から聞いた杷萬は、亜慈は、由真は、ほかの使用人たちは、いったいどう思うだろう。
そしてなにより紫園自身は――。
すべての演目が終わり、紫園と見世物小屋から出た。はぐれぬよう手をつないで、人波に流されるまま、東広場から北へと無言で歩く。
あたりに満ちた油餅 や串焼きの匂い。売り子の喧騒。湯気を立てる滋養湯 。飴売りの男が子どもらに飴を売り、別の小屋を張っている旅芸人が、今夜の演目を叫んでいる。
「なにか……ずっと別のことを考えているようでしたが……」
しばらく歩いて、遠慮がちに紫園が訊ねた。
「うん……ちょっと、気になることがあってね」
「そうですか……。天幕のなか、意外と暑かったですね。喉が渇いたでしょう、広場を抜けたら、どこかでお水を買ってきます」
「いや、いい」
「でも、」
「お願い、私から離れないで」
「先生……」
柴門は喧嘩っ早く気性も荒いが、思慮深いところがある。そうでなければ男衆たちを束ねることは出来ない。紫園の過去を暴き立てることに、なんら得がないことも分かるはずだ。由真をはじめ、女たちの反発を買うことは目に見えている。
(でも、やはり紫園は金亀楼にいるべきじゃない)
帝都は広く、紅籠 街にはさまざまな人間が入り乱れる。迭戈 を知る者が、金亀楼の敷居をまたぐことだってあるだろう。紫園が金亀楼で奉公を続ける限り、いつか、己の知らない過去に脅かされるときがくる。
東広場の端に、白い大理石の塔がそそり立つ。百年前、正十字教国との戦いに勝利した記念碑だ。麓には水売りがいて、多くの人が水を買い求めている。広場から北の大通りへ抜け、ようやく人混みから解放された。
立ち止まり、繋いだ手に力を込める。
「紫園、あなたに、どうしても話したいことがあるの」
「先生……」
「どこか人の居ない場所で話したい。これから金亀楼に戻って、私の部屋で」
「あの、偶然ですが、僕も先生にどうしてもお話したいことがあったんです」
彼には珍しく、藍那が言い終わらぬうちに言葉をかぶせてきた。頬を赤らめ、
「その、どこか人の居ない場所でしたら……これからご案内しますので」
とはにかむ。
「そ、そうなの?」
「はい。絶対、誰にも邪魔されません。保証します」
「う、うん。そうか……」
紫園に藍那も笑い返した。
「お祭りはにぎやかですが、人が多すぎますね」
「そうだね」
「では行きましょうか」
空いた方の手で紫園が指したのは、はるか西の方に望む聖弥勒 大聖堂の尖塔だった。
* * *
紫園に手を引かれるまま、北の大通りを西へ進んだ。
遠くに眺めていた尖塔が、少しずつ近づいてくる。感謝祭の狂騒に包まれた帝都にあって、ここ葡萄牙 街は、いつもと変わらぬ穏やかな日常が過ぎていた。聖堂前の広場で水を買い求め、木の長椅子に座りながら二人で飲んだ。
「もしかして静かな場所って、この大聖堂?」
訊ねた藍那に、紫園は笑った。
「違いますよ。この大聖堂の裏に、今は使われなくなった鐘楼があるのをご存知ですか?」
「ああ。たしか、すこしばかり傾いていて、それで鐘が外されたんだったね」
「陦蘭 さんが真夜中、その鐘楼によく登っていて、月や星の観測をしているそうなんです。鐘つき番のおじいさんから鍵を借りているそうで」
「へええ、それは初耳だ」
「『眺めがたいそう良いから、由真ちゃんを連れて行っておいで』って合鍵を作ってくれて。それで、こないだ由真と二人で――」
そこで紫園は口をつぐんだ。尖塔を仰ぎ見て、深く息を吐く。
「由真には……ものすごく叱られました。そんなことを言った先生も先生だけど、はいそうですかと従う紫園さんも紫園さんだ――って」
「そうだったんだ」
鐘楼は大聖堂の裏手にあり、普段は人の出入りを禁じられている。木製の扉にはめられた大きな錠前を合鍵で開け、なかへと入った。
狭い螺旋階段をひたすら歩いて、最上階を目指す。明かり取りの窓から入る光はわずかで、互いの姿が薄っすらと分かる程度だ。
傾斜がきつく、どれだけ上 っても出口は見えなかった。紫園はともかく、由真にとっては大変な道のりだっただろう。
それにしても。あの面倒くさがりで、縦のものも横にしたがらない陦蘭 である。彼が望遠鏡を抱えて、この階段を登っているのが信じられなかった。
日頃の鍛錬のおかげで苦ではないが、狭く暗い階段を黙々と歩いていると、本当に最上階へ着くのかと不安になる。
(いったい、どれくらい上ったんだろ)
ふと背後を振り向き、明かり取りの窓から覗いた光景に息を呑む。通りを歩く人々が、豆粒のように小さい。
「もうすぐです。もう少し上がるとたしか……扉が……ああ、ありました!」
前を行く紫園が、小走りに駆け上がった。掛けがねを外す音がして、眩しい光とともに、冷たい風が流れ込んでくる。
扉の向こうに、天蓋の曲線と柱に切り取られた、真っ青な空が見えた。蒼穹は手を伸ばせば届きそうなほど近く、軽いめまいを覚えるほど澄んでいる。吹き抜ける強い風に、長衣の裾が広がってはためいた。
「すごい……」
思わず声に出していた。これほど高い場所から空を見たのは初めてだ。中央の床がゆるく窪んでいるのは、かつては上に鐘が下がっていたからだろう。
塔の傾斜はわずかなものだが、歩いていると足元のおぼつかない、まるで小舟の上に立つような感覚を覚えた。
「こっちからの眺めが良いんです。滑石海 が一望できるんですけど、むこうに青海 も見えますよ」
右手に南の滑石海 。左手にわずかに見えるのが、北の青海 。
二つの海に挟まれた帝都の町並みは、日差しを浴びて輝いている。なかでも白く輝く《曾妃耶 さま》は、大粒の真珠を思わせた。
欄干を握りしめながら、藍那は東へと視線を向ける。その方向には、あの泉李 があった。
「紫園……、夏に東大参道で、やくざ者に絡まれたことがあったろう」
「はい、先生がそれで、お怪我をされて……」
「あの男は韋蛮 といってね、泉李に住んでいたならず者なんだが……。その昔、遙水 の講武所で、藩座 と一緒だったらしい」
「藩座さんと……ですか?」
「ああ。韋蛮は泉李で、播帑 という親分に仕えていたんだが、そこで、お前によく似た男を知っていたとか」
「僕によく似た……男……」
藍那は藩座から聞いた話を、紫園に打ち明けた。
泉李の播帑と、商人・巧瑠 の関係。巧瑠の妾だった瑚々 と、お抱え画家だった迭戈 のこと。彼の目が、紫色だったことも。
ただし屋敷から消えた剣のことと、その剣と迭戈を、役人が血眼で探していたことは伏せた。今はまだ話すべきではない。知らなければならないときは来るだろうが、それは今ではない――。
「では僕は……その迭戈 という画家だった――そういうことですか」
「韋蛮はなんども瑚々の屋敷で、迭戈を見たらしい。その彼が言うのだから、おそらく……」
紫園はため息をついて、滑石海 の沖合へ視線をやった。
色鮮やかな衣装に身を包んだ、軽業師や踊り子。彼らが手綱を引く、珍しい動物たち。象に獅子、首の長い鳥に、縞模様のある馬。金色の長い毛が美しい猿もいる。
調教された獣たちは、見事な芸を披露した。
火が燃え盛る輪をくぐる獅子。後ろ足で立ちながら、革製の球を鼻にのせる象。猿は天井から下がった綱から綱へと、身軽に飛び移る。
そのたび大きな歓声が上がるのだが、藍那の耳には、どこか遠い世界のように聞こえた。
紫園が買ってくれた
韋蛮が戻ったことを知った柴門が、
目的はただ一つ、紫園の過去を探るため。
もし柴門がすべてを知ってしまったら……。暗澹たる思いで、藍那は小さくため息をついた。
彼が屋敷に火を放ち、宝物庫から剣を盗んで逃亡した――。それらは、すべて憶測でしかない。しかし、それを柴門の口から聞いた杷萬は、亜慈は、由真は、ほかの使用人たちは、いったいどう思うだろう。
そしてなにより紫園自身は――。
すべての演目が終わり、紫園と見世物小屋から出た。はぐれぬよう手をつないで、人波に流されるまま、東広場から北へと無言で歩く。
あたりに満ちた
「なにか……ずっと別のことを考えているようでしたが……」
しばらく歩いて、遠慮がちに紫園が訊ねた。
「うん……ちょっと、気になることがあってね」
「そうですか……。天幕のなか、意外と暑かったですね。喉が渇いたでしょう、広場を抜けたら、どこかでお水を買ってきます」
「いや、いい」
「でも、」
「お願い、私から離れないで」
「先生……」
柴門は喧嘩っ早く気性も荒いが、思慮深いところがある。そうでなければ男衆たちを束ねることは出来ない。紫園の過去を暴き立てることに、なんら得がないことも分かるはずだ。由真をはじめ、女たちの反発を買うことは目に見えている。
(でも、やはり紫園は金亀楼にいるべきじゃない)
帝都は広く、
東広場の端に、白い大理石の塔がそそり立つ。百年前、正十字教国との戦いに勝利した記念碑だ。麓には水売りがいて、多くの人が水を買い求めている。広場から北の大通りへ抜け、ようやく人混みから解放された。
立ち止まり、繋いだ手に力を込める。
「紫園、あなたに、どうしても話したいことがあるの」
「先生……」
「どこか人の居ない場所で話したい。これから金亀楼に戻って、私の部屋で」
「あの、偶然ですが、僕も先生にどうしてもお話したいことがあったんです」
彼には珍しく、藍那が言い終わらぬうちに言葉をかぶせてきた。頬を赤らめ、
「その、どこか人の居ない場所でしたら……これからご案内しますので」
とはにかむ。
「そ、そうなの?」
「はい。絶対、誰にも邪魔されません。保証します」
「う、うん。そうか……」
紫園に藍那も笑い返した。
「お祭りはにぎやかですが、人が多すぎますね」
「そうだね」
「では行きましょうか」
空いた方の手で紫園が指したのは、はるか西の方に望む
* * *
紫園に手を引かれるまま、北の大通りを西へ進んだ。
遠くに眺めていた尖塔が、少しずつ近づいてくる。感謝祭の狂騒に包まれた帝都にあって、ここ
「もしかして静かな場所って、この大聖堂?」
訊ねた藍那に、紫園は笑った。
「違いますよ。この大聖堂の裏に、今は使われなくなった鐘楼があるのをご存知ですか?」
「ああ。たしか、すこしばかり傾いていて、それで鐘が外されたんだったね」
「
「へええ、それは初耳だ」
「『眺めがたいそう良いから、由真ちゃんを連れて行っておいで』って合鍵を作ってくれて。それで、こないだ由真と二人で――」
そこで紫園は口をつぐんだ。尖塔を仰ぎ見て、深く息を吐く。
「由真には……ものすごく叱られました。そんなことを言った先生も先生だけど、はいそうですかと従う紫園さんも紫園さんだ――って」
「そうだったんだ」
鐘楼は大聖堂の裏手にあり、普段は人の出入りを禁じられている。木製の扉にはめられた大きな錠前を合鍵で開け、なかへと入った。
狭い螺旋階段をひたすら歩いて、最上階を目指す。明かり取りの窓から入る光はわずかで、互いの姿が薄っすらと分かる程度だ。
傾斜がきつく、どれだけ
それにしても。あの面倒くさがりで、縦のものも横にしたがらない
日頃の鍛錬のおかげで苦ではないが、狭く暗い階段を黙々と歩いていると、本当に最上階へ着くのかと不安になる。
(いったい、どれくらい上ったんだろ)
ふと背後を振り向き、明かり取りの窓から覗いた光景に息を呑む。通りを歩く人々が、豆粒のように小さい。
「もうすぐです。もう少し上がるとたしか……扉が……ああ、ありました!」
前を行く紫園が、小走りに駆け上がった。掛けがねを外す音がして、眩しい光とともに、冷たい風が流れ込んでくる。
扉の向こうに、天蓋の曲線と柱に切り取られた、真っ青な空が見えた。蒼穹は手を伸ばせば届きそうなほど近く、軽いめまいを覚えるほど澄んでいる。吹き抜ける強い風に、長衣の裾が広がってはためいた。
「すごい……」
思わず声に出していた。これほど高い場所から空を見たのは初めてだ。中央の床がゆるく窪んでいるのは、かつては上に鐘が下がっていたからだろう。
塔の傾斜はわずかなものだが、歩いていると足元のおぼつかない、まるで小舟の上に立つような感覚を覚えた。
「こっちからの眺めが良いんです。
右手に南の
二つの海に挟まれた帝都の町並みは、日差しを浴びて輝いている。なかでも白く輝く《
欄干を握りしめながら、藍那は東へと視線を向ける。その方向には、あの
「紫園……、夏に東大参道で、やくざ者に絡まれたことがあったろう」
「はい、先生がそれで、お怪我をされて……」
「あの男は
「藩座さんと……ですか?」
「ああ。韋蛮は泉李で、
「僕によく似た……男……」
藍那は藩座から聞いた話を、紫園に打ち明けた。
泉李の播帑と、商人・
ただし屋敷から消えた剣のことと、その剣と迭戈を、役人が血眼で探していたことは伏せた。今はまだ話すべきではない。知らなければならないときは来るだろうが、それは今ではない――。
「では僕は……その
「韋蛮はなんども瑚々の屋敷で、迭戈を見たらしい。その彼が言うのだから、おそらく……」
紫園はため息をついて、