第14話 なにやら剣呑な匂い
文字数 4,149文字
つい先日のことだ。
藍那の依頼を受け、愛紗は夫の
問題は試験である。画学校の試験は
問題は紫園にその意思があるかどうかであった。
それを確かめるべく、藍那は紫園に話をした。
宮廷附属の画学校は実質的には徒弟制度を取っている。親方である宮廷画家のもとで働き、工房でさまざまな絵の制作に
しかしそこで頭角を現せば職業画家への道が開かれる。芸術は才能が全てだ。たとえ彼が身寄りのない、記憶すら失った夷修羅であっても優れた絵を描いてそれが認められれば、誰にも文句は言えない。だから紫園にとって画学校へ行くことは、人生を切り開くこの上ない機会なのだ。
――それだけの才能を埋もれさせるなんて勿体ないよ。やりがいがあるし、紫園ならきっとやれる。もちろん親方に払う保証金やらいろいろかかるけど、私や磁英頭さんでなんとかするから気にしなくていい。親方からの推薦があれば奨学金ももらえるしね。借した分は一人前になったときに返してくれればいいさ。
そんなことをこんこんと言って聞かせたのである。しかしそのうち、神妙に聞いていた紫園が肩を震わせはじめた。藍那の話が終わるやいなや顔をうつむかせ、しゃくり上げたかと思うと、携帯用の墨壺から出した筆で反故紙になにやら書き付ける。
――学校には行きたくありません。ここのほかのどこにも行きたくないのです。どうか先生のお側に居させて下さい。なんでもします。
殴り書いたものを差し出し、涙のたまった目で藍那をじっと見つめた。
その切羽詰まった様子に藍那は言葉を失い、それ以上なにも言えなくなってしまった。傍で聞いていた由真には
――紫園さんってよっぽど先生に懐いているんですね。なんだか先生には犬みたい。
とからかわれる始末である。
紫園に行きたくないと言われてしまえばどうしようもなかった。そのようなわけで画学校に行く話は一端保留となり、愛紗にもことの顛末を話したのだが、どうやら愛紗から杏奈には伝わっていなかったらしい。
「ふうん、あの子が、ねえ……」
話を黙って聞いていた杏奈が、手元に視線を落とした。
「身元保証人になってくれた磁英頭さんにも申し訳ないのですが、本人がいやというものを行かせるわけにもいかなくて。私としては、非常に惜しいと思うのですが」
「そうよねえ。あれだけ上手けりゃ宮廷画家も夢じゃないかもしれませんしね。だけど、あの子がねえ、へえ……」
なんだか感心したように呟き、笑みを漏らして藍那を上目遣いに見た。
「な、なにか?」
「いえ、あの子がそんな風に言うなんて意外なんですよ。ここに奉公に行かせるって告げたときだってね、うんって頷いただけでした。泣いたりごねたりなんてなかった。たぶん、あたしには世話になっているという負い目があったんでしょうね。なんだかちょっと拍子抜けしちゃったくらい。だから、あの子きっと……」
「きっと……なんですか?」
藍那が訊ねると、杏奈は含み笑いをもらした。
「だからね、それだけ先生に心を許しているってことじゃありませんか? わがままを言えるほど先生に気を許して、頼っているんですよ。だからこのまま紫園のことをお願いできれば、あたしとしても助かります。どうかこのとおりです――」
「そ、そんな、師匠……どうかお手をお上げ下さい」
膝上に両手をそろえ深々と
「それはそうと、もし万が一にでも紫園の気が変ることがあれば、先生、紫園が学校へ行くお金は、あたしに出させてもらえませんか? 聞けば、先生は由真のことも面倒見るつもりじゃありませんか。先生一人の蓄えで二人も学校へ行かせるなんて、あんまり無茶ですよ。紫園を先生におしつける格好になってしまって、このままじゃあたしの気が済みません」
「ですが……」
「もっとも紫園が考え直したらの話で、いつになるか分かりゃしませんけど。でも先生、あたしにだって蓄えくらいあります。そのときになったら考えておいて下さいな」
「はい、ありがとうございます」
杏奈の申し出を素直に受けることにした。たしかに藍那の蓄えで二人を学校に行かせるのは無理ではないがいささか苦しい。ただし、あくまで借りたものとして受け取り、紫園が独り立ちしたときに返させよう。
そのとき由真が銚子を盆に載せて客間に入ってきた。
「お師匠さま、先生、お茶のおかわりをお持ちしました」
「由真、お久しぶり。それはそうと来年、学校に行くことになったんだってね」
「はい、先生が通わせて下さるって」
由真が満面の笑みを浮かべて藍那を見る。その嬉しそうな顔に藍那も微笑み返した。
娼妓が羨ましいと言った由真を、はからずも泣かせてしまった翌日。
反省した藍那は由真に打ち明けたのだった。いずれは養女として身請けすること、そして女子学校に行かせるつもりであることを。そのときの由真の驚きと喜びようといったらなかった。
「良かったじゃないか。これからは女も教育を受けなくちゃね」
「本当に夢みたいです。先生にはどんなにお礼を言っても足りません」
「いいのよ、由真。あたしが由真を学校にやりたいんだから。なにも気にすることないからね」
藍那の言葉に由真はにっこりと笑う。井戸水で冷やした薄荷茶を銚子から注ぎ、卓上に出してから頭を下げて退室した。
静かに閉められた扉を眺め、杏奈が口を開く。
「由真はしっかりした賢い子ですよ。あの子が学校に行くのはあたしも賛成です。今のままじゃ、いずれ娼妓になるって言い出しかねませんしねえ。ところで先生――」
不意に真顔になり、茶を一口飲んだ。
「今ね、
「おかしなこと?」
「ええ。泉李には巡礼の帰りに立ち寄りましてね。妹たちの家があった焼け跡を、もう一度見たくて行ったんです。それで区切りをつけたくて……」
その焼け跡で、妹一家と親しかった女性と顔を合わせたのだという。
妹たちの思い出話から会話がすすみ、ようやく日常を取り戻しつつある街のことを話した。その流れから、最近役人が焼け残った家一軒一軒をしらみつぶしに巡り、ある剣の行方を聞き込んでいるらしいと知ったのだ。
「剣?」
思わず聞き返し、なぜかそのとき紫園の顔が頭に浮かんだ。
「はい。なんでも大きなお屋敷からなくなった、由緒ある剣らしいんですけど。羽箭さんが言うには、お役人がわざわざ調べているからには、なにかよっぽど価値があるんじゃないかって」
「でも……あれほどの大火なら、焼けてしまったということも考えられるんじゃないでしょうか」
「あたしもそう思うんですけど。でももし火事場泥棒で盗まれたんだとしても、あれから
武器屋か――。
華人街の
「その役人が探しているという剣ですが、何か特徴のようなものはあるのでしょうか」
「さあ、あたしもそこまでは聞いてなくて。ただ……紫園は昔のことをなにも憶えていないでしょう? その話をきいたとき、もしかしたら剣を盗んだ泥棒だったんじゃないか――なんて一瞬疑ってしまって。
あたしはあの子が好きですし、そんなことをする子じゃないって思っているんですけど。でも一応、聞いてしまったからには先生のお耳には入れておいた方が良いと思いましてね」
「そうでしたか……」
ここに来た当時の紫園は剣に異様な執着ぶりを見せていた。そのことを言いかけたが、杏奈を余計に心配させるだけだと思い直す。
「でも紫園が焼け跡に倒れていたときは、剣などは身につけていなかったのでしょう?」
「ええ、身一つで倒れてました。もう全身灰やら炭やらでまっくろでしたよ。近所のおじさんに手伝ってもらって、一番近い療養所に運んでもらったんですけど」
藍那は頭のなかで情報を整理する。
そして今になり、役人たちが血眼で一振りの剣を探している。
剣は大きな屋敷から盗まれたものらしいが、御上が役人を使って捜し回るほどのものだ。どうやらただの剣ではあるまい。
(ふん、なにやら剣呑な匂いがするね)
まったく関係ないことをこじつけているだけなのかもしれないが、なにか引っかかる。
「紫園が泥棒なのかは分かりませんが、もしかしてその剣のことを調べればなにか分かるかもしれません。華人街の蔵人に当たってみようかと思います。できれば、役人が言った剣の特徴を詳しく知りたいのですが」
「分かりました。羽箭さんに手紙を書いてみましょう。時間はかかりますけど」
「お願いします」