第13話 杏奈の懸念

文字数 3,663文字

 妹一家の供養巡礼に詣でていた杏奈(アナ)が帝都に戻り、紫園の様子を見に金亀楼へと顔を出した。藍那が会うのは五月(いつき)ぶりだろうか。杷萬の客間で久しぶりに会った杏奈は、厳しい巡礼のせいで少し痩せ、顔は日に焼けている。

 杏奈は泉李(イズミル)の大火で妹夫婦と姪を亡くしてしまった。
 唯一の肉親を失った悲しみは深く、たいそう気落ちし、弦楽(つる)の稽古に出ることもなかった(そのあいだに拾った紫園の面倒を見ていたわけだ)。
 やがて三月(みつき)の喪が明けると彼を金亀楼に預けたのち、供養巡礼のために東の地、寶座(タフテ)へと旅だった。

 寶座(タフテ)は杏奈が信仰する拝火教の聖地である。(かつ)ては大陸のあちこちで隆盛した拝火教だったが、華羅や羅典(ラテン)では邪教の扱いを受け、弾圧の憂き目に遭う。そして迫害を逃れ、国を追われたものたちの多くが、この帝都阿耶(アヤ)へと住み着いた。
 萬和(マナ)の教母、曾妃耶(ソフィア)は他宗教への寛容を説いている。それ故、拝火教徒たちが目立って差別されることはない。
 
 それにしても、拝火教を信仰している杏奈が最愛の妹を大火で亡くしたというのはなんとも皮肉な話である。だが森羅万象、あらゆるものを神と崇める萬和(マナ)の教えとて、結局は同じことなのかもしれない。
 火も水も風も、人に恵みをもたらす一方でときには牙をむく。

 客間には杷萬と藍那、紫園のほかに秧真(ナエマ)も同席した。
 椅子に腰を下ろした杏奈は服喪用の略式礼装。夏用の袖なし白襦袢に黒い紗の単衣を重ね、白の袴に帯は黒地。秧真が出した薄荷茶を一口飲むと

「なんだか、ようやくこれで一区切りついたって気がします」

 寂しげな笑みを浮かべた。

「そろそろこっちの稽古も再開しなきゃと思っているんですよ。代わりの楠啓(ナビラ)先生には、本当に無理言ってしまいましたしね。話が急な上に、あんなお歳で頑張らせてしまって申し訳なかったです」
「たしかに、楠啓のばあさまはよくやってくれてますよ。本人も、『まさか隠居したあとで、こんなにこき使われるとは思ってなかったね』とぼやいてましたが。なに、いつもの憎まれ口でさ。内心は若い娼妓(おんな)たちに好きなだけ雷を落とせて、シワと腰が伸びると喜んでるに違いありませんや」
「だといいんですけど」

 杏奈は杷萬の言葉に苦笑した。
 楠啓(ナビラ)とは七十を越す老女で、杏奈と同じく弦楽(つる)の師匠である。藍那がこの金亀楼に来る少し前に隠居してしまったのだが、杷萬や愛紗の言によればたいそう厳しい上に口が悪く、弦楽を習う女たちから夜叉のように恐れられていたらしい。

 だが苦労人だけあって厳しいだけではなく、患って寝付いている娼妓にこっそり鰻や鯉を差し入れてやる、または身内に不幸があったときは香典を渡すなど、心遣いにあふれた人物でもあった。
 杏奈が喪に服すあいだのことを頼みに隠居長屋へ出向いたときも、嫌味ひとつ言わなかった。鼻から水煙管の煙を吐き出し、しわだらけのまぶたを細めて

 ――妹さんは気の毒だったね。ま、三月(みつき)と言わず、あんたの気が済むまで弔ってやんな。

 そう快く引き受けてくれたという。

「まあ、杏奈の教え方が甘いもんだから、うちの娼妓(おんな)たちも、愛紗は別として少々だらけてましたんでね。私のいうことなんて聞きやしないが、楠啓のばあさまにみっちり鍛え直されて、すこし背筋が伸びたようですわ。この秧真なんぞ『はやく杏奈先生に戻ってきて欲しい』って、いつも涙ぐんでおりましたよ」
「もうお父さまったら」

 二人の会話に、秧真が頬を膨らませて身を乗り出す。

「だって楠啓先生、すごくおっかないんですもの。私は優しい杏奈先生のほうがいいです」
「あら、でも杷萬に甘いって言われたから、少し厳しくしようかしらね」
「ええ? そんなあ、困ります」

 杏奈と杷萬と秧真のあいだで交わされる会話を、藍那は黙って聞いていた。そして時折、隣に座る紫園の様子をそれとなく窺う。
 焼け跡に倒れていたところを助け出され、三月(みつき)のあいだ寝食を共にして面倒を見てもらった。そのことに紫園だって当然恩を感じているはずだ。しかし先ほどから、どういうわけか杏奈にたいして妙によそよそしい。

 客間で顔を合わせたときからそうだった。杏奈が懐かしげに声をかけてきたのに、たいして嬉しそうな顔もせず、神妙な顔で頭を下げただけだ。猫は飼われた恩を三日で忘れるというが、紫園も杏奈への恩をきれいに忘れてしまったというのか。
 今も世間話をはずませる三人を前に、どこか所在なさげに膝上の拳に視線を落としたまま動かない。

「さて、私らはそろそろこれで失礼しますよ。先生、杏奈と紫園のことについて積もる話話もあるでしょう」

 話に一区切りがついたところで杷萬が腰を上げると、慌てて秧真も立ち上がった。二人が退室すると

「紫園、元気そうだね。なんか顔つきが変ったようじゃない」

 杏奈が身をのりだして紫園の顔をのぞき込む。のぞき込まれた紫園は気弱な笑みを浮かべ、こくこくとうなずいた。

「愛紗からも聞いたよ。絵を好きなだけ描かせてもらっているんだってね。本当に良かったよ。最初びっくりしたのさ。あんまり様子が変っていたんでね」

 杏奈はそう言ってから藍那に笑いかけた。

「先生には本当にご迷惑かけましたね。それどころか、学校に行かせることまで考えて下さっているとか」
「あ、ああ……その、それは……」

 藍那は慌てて紫園を横目でみた。紫園は杏奈の学校という言葉を聞いたとたん肩を落とし、しょんぼりとうなだれている。

「その……その話は今のところ、保留になっているんです」
「はあ……?」

 杏奈は藍那と紫園を交互に見つめた。そして二人の様子からなにかを察したのか

「紫園、悪いけど亜慈さんのところに行っておくれ。あたしは先生とちょっと話がある」

 そう命じる。言われた紫園がおとなしく部屋から出て行くと、杏奈は銚子(さしなべ)に入った薄荷茶を自分で入れ、一口飲んだ。

「先生、なんだかいろいろと申し訳ありませんね」

 深々と頭を下げる。

「本当なら拾った以上、あの子の面倒はあたしが見るべきなんですが。でもこの通り、女一人の暮らしに若い男を住まわせるのも外聞が悪いし、ずっと養ってやれるわけでもありませんから。だから、巡礼に出るのを良い機会にここに預けたんですけど……ずっと気にかかっていたんですよ。ちゃんとやっていけているのかって」
「その……紫園は師匠と暮らしていたときは、どんな感じでした?」

 藍那の問いに杏奈は肩をすくめた。

「どんな感じっていっても、あんな感じでしたよ。なんだか人というより、手負いの獣を助けたような感じでしたねえ。別れる間際になってようやく、少しくらいは懐いてくれましたけど」

 手負いの獣。たしかに言い得て妙である。

「はあ……そうですか。でもなんだか申し訳ありません。杏奈先生のご恩を忘れたわけではないと思うのですが」
「先生、紫園はね、あれでも気を遣っているんですよ」

 と杏奈が微笑んだ。

「……と、おっしゃいますと」
「先生は、紫園のあたしへの態度がずいぶんよそよそしいとお考えになって、納得がいかないのでしょ」
「はい、そうです」

 杏奈はくすりと笑う。

「紫園は先生に遠慮したんですよ、たぶん」
「遠慮? 私にですか?」

 目を丸くした藍那にうなずき、杏奈は卓上の干しいちじくを一つ摘まんだ。

「ええ。たった三月(みつき)でもいっしょに暮らしていれば、やっぱり情が湧きましてね。なんだか弟みたいな気がしましたし、あの子はあの子で、少しはそういったものを感じてくれていたと思います。
 でもね、今のあの子にとっては、先生の方があたしよりずっと大切なんですよ。だからあたしと馴れ馴れしくすると、まるで先生をないがしろにするみたいで、それが嫌だったんじゃないですかね」
「はあ」

 そんなものなのだろうか。しかし世話になったという意味で言えば、藍那より杏奈の方がずっと恩があるのではないか。焼け跡で倒れたところを救い出し、半病人だった彼をかいがいしく看護して面倒を見てくれたのだから。

 一方藍那が紫園にしていることといえば、今のところ見習い弟子としてあちこちを一緒に連れ回しているくらいだ。彼を王宮附属の画学校に入れるという藍那の計画も、紫園の拒絶にあって頓挫してしまっている。

「ところでさきほどの学校のことなんですが」

 咀嚼したいちじくを飲み込んだ杏奈が、唐突に話を元に戻した。

「学校に行く話が保留になっているとは、どういうことなのですか?」
「それが……紫園に泣かれてしまいまして」
「はあ?」
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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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