第45話 晴夫(セイフ)
文字数 3,643文字
あちこちで川の水が溢れ、とくに南の貧民街は低い窪地にあるため、水が腰まで浸かったらしい。
このような天候ではしぜん、妓楼も客足が遠のいて閑古鳥がなく。
男衆たちも下女たちも、みな暇を持て余しているせいか、顔を合わせれば不安な表情で囁き交わした。
この季節外れの大雨は凶兆、良からぬことの前触れなのではないか――と。
「最近そんな話ばっかりですよ。最初は笑い飛ばしていた
四日目の朝には、由真がそう言って苦笑した。
もっともそんなことが
――そんな下らない話をするくらい暇なら、給金を下げるぞ。
などと言われるに決まっている。
だが同じような不安を
「この季節にこんな長雨なんて、なんだか不吉ですわ。ですから私、思い切って、お天気が良くなる願掛けをしてみようと思いますの」
昼下がり部屋を訪ねてきてそう言った。ちょうど由真も勉強のために部屋にいて、
「晴れの願掛けですか」
と訊ねる。秧真はうなずき、胸を張った。
「ええ、そうよ。ちょうどいいわ、由真、あなたもいらっしゃい。祈りを捧げる人数が多いほうが、効力があるらしいの。ささ、先生もご一緒に。由真の勉強はあとでもよろしいでしょ」
そのようなやりとりで、由真ともども強引に
願掛けは麦穂や塩などと一緒に、羊皮紙に書かれたまじない札を使って行われる。
雨のなか、まじない札を買いに行かされた
秧真の部屋に簡単な祭壇が拵えられた。
壇上には麦穂と岩塩と月桂の葉、そしてまじない札が置かれ、秧真が巫術屋に教えてもらった呪文を唱える。その背後で節と寧々、由真と一緒に藍那も、神妙な顔で手を合わせた。
もっとも、藍那はこうしたまじないなど、毛ほども信用していない。
あの
秧真の気が済めばそれでいい――手を合わせたのも、そんな了見であった。
しかし、あろうことか、その夜から
秧真の喜びようといったら、ちょっとした見ものであった。朝一番、藍那の部屋に駆け込んで
「先生、すごいですわね。こんなに効くなんて思ってもいませんでした。ね、ね、これは、あの巫術屋のお札がすごいのでしょうか。それとも、私が真剣にお願いしたから――どちらだと思いますか?」
とはしゃぐ。
冷静に考えれば、四日も雨が降り続けば、そろそろ晴れる頃合いである。伝説の大洪水でもないかぎり、止まない雨などないからだ。
つまり単なる偶然であるのだが、それを言うのは野暮というものだろう。だから
「もちろん、お嬢さまが真剣にお願いしたからでしょう。お嬢さまの祈りが、萬和に届いたのでしょうね」
と答えた。
「本当に不思議ですわ。今まで叶わなかったのは、きっと真剣さが足りなかったのですね。ねえ先生。真面目にやれば、他のお願いも叶うのでしょうか」
「他のお願いって……なんですか?」
訊ねると秧真は顔を赤らめた。
「た、例えば……後宮で、たくさんいいお友達ができますように……とか」
「そうですね……。お願いが叶うかは、それこそ
秧真がまじないに凝るのは考えものだ。こうした分野に素人が深入りすると、ろくなことにならない。
しかし後宮入りを控えた秧真が、巫術に頼りたくなる気持ちも分かる。
藍那は顔をほころばせ、言った。
「ですが、本当に叶えたいと熱心にお願いすれば、萬和もきっと聞き届けてくれるはず。お嬢さまのお幸せを、萬和も望んでいます」
「そ、そうです……よね」
なにやら嬉しそうに、軽やかな足取りで秧真は出ていった。
五日ぶりの晴天とあって、金亀楼は眠りから覚めたように活気づいている。男衆たちが魚介や小麦を運び入れ、下女たちが床や手すりを、顔が映るくらいに磨き上げている最中だ。
「さてと、今日は私も出かけなくちゃね」
寝床から
こうして傷の一つ一つを
どちらが死んでもおかしくない真剣勝負だった。いや本来なら、どちらかが死ぬまで決着のつかない戦いだった。それをああいった形で幕引きができたのは、蔵人の《年の功》のおかげだった――今ではそう思う。
蔵人は蔵人の仁義があり、藍那には藍那の仁義があった。
敵ではなく友として、しかし互いに譲れぬものがある故に剣を交えた。
それだけのことだ。
藍那は蔵人と
* * *
華羅人街は主に華羅出身、ならびにその周辺地域のものが居を定めるが、研ぎ師の
彼の出身は黒曜大陸で、
奴隷として売られたのち宦官となり、宮廷につかえ、先帝の崩御で特赦を得て、晴れて自由になった。研ぎ師になったのは二十代の後半だったという。
なんとも波乱万丈な経歴の持ち主だ。おまけに右耳が削がれて失われ、穴を焼いて潰した痕があった。見るたびに痛ましく思うほどの傷跡である。つけられたときの苦痛は、いかばかりだったか。
しかし当の本人は藍那の視線などおかまいなく、目をすがめて、天星羅の剣身に見入っていた。
「こいつはなんとも……派手にやりなすったねえ」
宦官特有の高い声で言った。目尻のしわを一層深めて笑い、
「おうおう、そうかそうか。おまえさんも頑張ったなあ」
と天星羅に話しかける。
彼の正確な歳を蔵人すら知らなかったが、先帝の崩御が三十二年前だ。そのとき二十代の後半だとしても、まだ六十ちょっとのはずだ。しかし漆黒の肌に刻まれたしわのせいで、七十すぎに見える。
痩躯にまとう、薄汚れた袖なしの長衣。
年老いた宦官によくある、一見男か女か分からない容貌だ。しかし天星羅を見つめる眼光は鋭く、剣身をなぞる指先は、猛禽類の爪を思わせる。
ようやく天星羅から視線を転じ、歯を見せて笑った。
「これだけやりあって、よく生きて帰ってこられたもんだね。
「私もそう思います」
「ま、二人の命と引換なら、酒楼ひとつ潰したところでお釣りがくるってもんさ。蔵人は賢明だったよ。帝都は惜しい男を失ったねえ」
藍那は無言で、工房の窓から外を眺める。
金亀楼からここまでのあいだ、つけられている気配はなかった。
「こないだ泰雅の剣客とやりあったと思ったら、お次は蔵人ときた。おまえさん、どうも最近、きな臭いことに巻き込まれてるようだが」
口を開きかけた藍那を制し、指でなぞった剣身を左耳に当てる。
「ししし。やはりあたしの耳は、人の声より剣の声を聞くのが得意さ。ま、おまえさんの事情はさておいて……。安心しな、いつも通り、きのう今日出来上がったみたいに、綺麗さっぱり研ぎ直してやるよ」
「お願いします」
「そうか……さて、じゃあ始めるとするかい」