第58話 韋蛮(イヴァン)、再び

文字数 4,187文字

 神官からの祝福はすぐに終わる。彼が左手に捧げた聖杯には、聖水で溶いた胡粉が入っている。指につけたそれを、参詣者の眉間に塗って完成だ。
 萬和(マナ)の教えでは、白は神聖な色であり、(ゆる)しと再生をあらわした。
 断食を無事に終えたものは、祝福を受けることで、犯した罪を許される。そして、新たに生まれ変わった気持ちで、次の感謝祭までの日々を過ごすのだ。

 藍那も幼い頃、圓奼(マルタ)と一緒に祝福を受けていた。祝福は信徒に限ったことではないので、わざわざ華羅人街から受けにくるものも多い。
 もっとも、眉間に塗られたものはやがて乾いて落ち、きれいさっぱりなくなってしまうのだが。
 藍那も紫園とともに祝福を受け、大聖堂をでたときは昼近くになっていた。

「これから《大市場(ビューク)》に行こうと思うのですが。先生は他にどこか、行きたいところはありますか?」
「ああ、そうだね。そうだな……」

 藍那はしばし考え、

「《銀通り》に行きたいの。ちょっと由真に贈り物を買いたくて」
「そうですか。《銀通り》なら、こっちの通りから行ったほうが近いですね」

 大寺院近くにある市場(チャルシュ)は、東西南北へ迷路のように広がっている。その中でも、天蓋付きのそれは《大市場(ビューク)》と呼ばれていた。中興の祖と名高い(コウ)帝によって建てられ、当時は毎夜のように夜市があり、不夜城と讃えられたという。

 しかし二度の大火事に遭い、そのため、帝は夜市を厳しく規制した。現在、夜の営業を認められているのは、華羅人街の東大参道と色街だけだ。

 感謝祭のあいだ、《大市場(ビューク)》も夜の営業を認められ、不夜城の賑わいを取り戻す。しかし三日目ともなれば、さすがに売り主や客たちにも、祭りの疲れが見てとれた。かわらず元気なのは子どもたちだ。

「ねえねえ、象がいるらしいよ!」
「ほんとう?」
「虎もいるんだって!」

 声を弾ませ、回廊を掛けていく。どうやら、旅芸一座の小屋が近くにあるらしい。

安瑛(アンデレ)さんが言ってましたが、黒曜大陸の珍しい動物もいるらしいですよ。縞模様の馬とか、首の長い鳥なんかが見られるそうです」

 昨夜、寧々(ネネ)とでかけた彼の自慢話に、延々と付き合わされたそうだ。

「僕も、できれば先生と見に行きたいなって……昨日から思ってて……ええと」
「そ……そうなんだ……。じゃあ、由真へのお土産を買ったら、行ってみようかな」
「はい」

《銀通り》はその名のとおり、銀製品を扱う店がずらりと軒を並べている。
 燭台、食器、花瓶、貴石をはめこんだ宝飾剣に兜。鏡やかんざし、(こうがい)、首飾り、腕輪に指輪。
 勘定台の店主と視線が合えば、すこし眠たげな目を細め、

「どうでしょう、おきれいなお嬢さん、こちらにはなんでも揃ってますよ」

 と、愛想笑いを浮かべるのだった。店先に並んだ装飾品を眺め、藍那は途方に暮れる。

「ううん、これだけなんでもあると、何を選んで良いものやら」
「決めていなかったのですか?」
「きれいな髪留めでもどうかと思ったんだけど。でも考えてみれば普段つけられないし、別のもののほうがいいのかな」
「うーん、そうですねえ」

 手前に飾られた水差しへと視線をやり、紫園はしばし考える。

「手鏡などどうでしょう」
「鏡?」
「このごろ、身だしなみを気にするようになりましたし。やっぱり年頃なんでしょう。たまに璃娃(リーア)の鏡を借りているようです。自分で買うには、いささか値が張りますから」
「そうだったのね」

 ふと、寝台の下にしまった鏡のことを思い出す。愛紗から贈られて以来、一度も目にしたことはない。もし杷萬(ハマン)の跡取りとして金亀楼の楼主を務めるなら、もうすこし、身だしなみに気を遣ったほうがいいだろうか。

「でも、手のひらの大きさくらいなら、それほど高くないはず。そうね、鏡にする」
「この近くに、陦蘭(ジマラ)さんの知り合いがやっている店があるんです。今日は開いているか分からないのですが、行ってみましょうか?」

 その店主は気まぐれで、たまにしか店を開けないのだそうだ。普段は、陦蘭が実験で使う素材の調達をやっている。店で扱う銀器は手頃かつ、いいものが揃っているらしい。
 陦蘭の工房からの帰り道、由真と一緒に訪ねた時は、目を輝かせ、髪飾りや手鏡、布留め(ブロス)をしきりに眺めていたとか。

 彼の案内で(くだん)の店まで行った。
 運良く店は開いていて、紫園が小柄の店主と挨拶を交わす。《銀通り》の端っこにある店は小さいが、扱っている品物は、値段の割に造りも細工もしっかりしていた。藍那たちの他には客が五人、それなりに繁盛しているようだ。

「手鏡でしたらこちらの棚に。ただここ数日でかなり出てしまいましてね。もうこれしか残っておりません」

 店主は濃い眉毛を申し訳なさそうにひそめた。飾られていた手鏡は二枚。そのいずれもが、精緻な金彩をほどこされている。若い娘が持つには贅沢すぎる作りだ。
 藍那が困っていると

「由真ちゃんへの贈り物とうかがいました。以前お会いしましたが、いい子ですね。こちらにあるのは新しいものばかりですが、ほんの少し、古いものも扱っております。出すのはおなじみさんなので、奥にしまってあるんです。いま出してきましょう」

 店主はそう言って、藍那を勘定台へと(いざな)った。奥に消えると、やがて木箱を抱えて戻ってくる。蓋を開けて包みを広げ、なかのものをひとつひとつ勘定台へのせた。

「これは一昨日(おとつい)仕入れたものですが」

 そのなかの一つをとって見せた。鏡面の裏は蔦模様で飾られて、小さいながら存在感がある。

「彫りの細工がやや荒いのですが、仕上げは丁寧です。おそらく大きな工房で彫りを弟子が、仕上げを親方がやったんでしょうな。鏡面も綺麗ですよ。陦蘭(ジマラ)のご友人だ、お値段も安くしておきましょう」

 店主の言い値で金を払い、店を出た。油紙に包まれ、紐をかけられたそれを、藍那は懐へしまいこむ。由真の喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。

「いいものが買えて良かった。紫園、ありがとう」

 礼をのべると、紫園は照れたように笑う。

「お役にたてて、僕の方こそ……。それより、これから小屋を見に行きませんか? 混んでいて入れないかもしれませんが」
「そうだね。行こうか」
「小屋は東広場に立っているそうです。ここからですと《絨毯通り》を抜けたほうが早いですね」

 肩を並べ、歩きはじめる。来た道を戻るように《銀通り》を過ぎ、《絨毯通り》に出た。色彩あふれる模様を左右に眺めつつ歩く。やがて東広場へ続く《瀬戸物通り》へと。

 祭りも今日で終わり。とはいえ、どこの通りも大勢の客で賑わっている。ふと顔を向けた視界の端、店先で小鉢を手にとって、店番の少年と話している痩せぎすの男。

 浅黒い肌に濃い髭、そして頬には大きなやけどの痕が――。
 藍那の足が、止まった。

 * * *

「先生?」

 急に立ち止まった藍那に、紫園は怪訝な表情だ。

(あれは、もしかして……韋蛮(イヴァン)……?)

 一度会っただけなので、顔など忘れてしまった。しかし頬の火傷の痕だけは、記憶に鮮明だ。呉椅(ゴイス)の茶館で、紫園を足蹴にしていた男の体つきとも似通っている。

 とっさに、すぐ横の店を眺めるふうを装った。品を手に取りながら、聴勁で男の気配を探る。やがて韋蛮(イヴァン)らしき男は、東広場へとつづく方角へ歩き始めた。

「先生? あの男は?」
「紫園、悪い。お前だけ先に見世物小屋に行ってくれ。現地で落ち合おう。私はあの男のあとを付ける。行き先だけ分かったら、見世物小屋に行くから」
「分かりました、お待ちしています。どうか気をつけてください」

 紫園の言葉にうなずき、人混みにまぎれた背中を追った。いまは天星羅も手元にない。どこの誰かと斬り合いをするような事態は避けたいところだ。

 男は東広場へは行かず、そのまま《瀬戸物通り》から《宝石通り》を進んでいく。やがて《大市場(ビューク)》を抜け、《市場(チャルシュ)》へと出た。古着屋がずらりと並ぶ一帯は《孔雀通り》とも呼ばれている。古いものばかりだが、ときたま驚くような掘り出し物があって、藍那も由真となんどか来たことがあった。

 それにしても、いったいどこへ向かっているのか。
 この先は、酒楼や大きな浴場(ハマム)がある歓楽街だ。

(そこへ向かうにしても、なぜわざわざ《孔雀通り》を?)

 前を歩く男がふと立ち止まった。
 華やいだ薄ものを扱う店先で、主となにか小声で話している。男はうなずき、ふたたび通りを進み始めた。今度は歩調が早い。

《孔雀通り》から軍放出の刀剣を扱う《赤錆通り》、鋳物を扱う《薬缶通り》を通り過ぎ、《茉莉花(ヤスミン)街》へと。浴場(ハマム)や酒楼、茶館が立ち並ぶ通りの華やかさは、東大参道や紅籠(ヴェロ)街にもひけを取らない。

 男はやがて、薄桃色の外壁を持つ建物に入った。このあたりでは一番大きな浴場(ハマム)である。さすがにこれ以上の尾行は不可能だった。

(ここで、誰かと待ち合わせているのか?)

《孔雀通り》から、明らかに足取りが変わっている。あの店主が、預かった言付けを男に伝え、それに従って浴場(ハマム)へと向かった――そう考えていいだろう。
 その誰かは、もう浴場(ハマム)に来ているのか、それともこれから来るのか。

(相手は、あの泰雅の剣客か?)

 名は確か……宮遮那(クシャナ)。相手がその宮遮那なのか、否か。それくらいは確かめたいが、紫園をあまり長く待たせたくない。

(よりによって今日とは。なんとも間が悪いな)

 諦めて来た道を引き返そうとしたとき――。
 視界の端に知った顔を認め、慌てて近くにあった積み樽の影に姿を隠す。
 通りを歩く人混みのなかに、柴門(シモン)の姿があった。よそゆきの白い麻の長衣をまとい、髪を油でなでつけている。薄桃色の外壁に近寄ると、迷いなく浴場の入り口へと姿を消した。

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登場人物紹介

紫園ㅤ

記憶を失くした青年。奥尔罕オルハンの帝都阿耶アヤから東にある港街、泉李イズミルの大火で生き残っていたところを助けられ、金亀楼コンキろうに下男として引き取られる。読み書きができ、剣も使える謎多き人物。赤みがかった栗色の髪に、珍しい紫色の瞳の持ち主。

璃凛リリン藍那アイナ
母から伝えられた双極剣の遣い手であり、女ながら用心棒で生計を立てている。現在は帝都随一の色街、紅籠ヴェロ街の娼館、金亀楼で働くが、訳あって母の名前である藍那アイナを名乗っている。十八歳。

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