第33話 神功皇后の福岡 三韓征伐への備え大己貴神社

文字数 1,530文字

現状の手持ちの戦力では、外国を攻め落とす戦力にかけていた。戦死者も多かった。兵
力の増強を、各豪族に依頼をした。大己貴神社(おおなむち)で、祈祷の祭祀を行った。
大己貴神社は、朝倉郡筑前町弥永にある。日本書記では「船舶練兵や軍卒を集めることが難しく、皇后は大三輪(大己貴神社)を建て、刀矛を奉納。すると軍兵が集まった」と記載されている。大勢の豪族が兵士を連れ、戦の手助けに駆け付けた。増兵でき、それぞれの錆びた刀や矛を磨く為、砥上神社へ赴く。
砥上神社は、朝倉郡筑前町砥上にある。由緒は、「神功皇后が新羅遠征のおり、諸国の軍衆を招き寄せこの地を『汝らが中宿なり』と仰せられたことから、この辺を中津屋郷と呼び、またこの地で軍衆に命じて、兵器を研ぎ磨かせたため「砥上」の名が起こった。そのときの刀錆で池は赤くにごり、その後、水が澄んだことがないと言い伝えられている。
三韓征伐に赴く前に、経路は、福岡西部及び佐賀県など多くの説はある。その点は、別の機会に追及したい。皇后軍は、熊鷲征伐の後、博多港近くの警固神社に集結する。
経路の途中に、皇后軍は飯塚にある撃鼓神社へも立ち寄った。撃鼓神社は、飯塚市中にある。古い時代を感じさせる神社である。太鼓と笛で踊る祭りがあるとネットはいう。由緒板はない。回りは鉄筋のアパートが建ち、昔風の建物は見当たらない。「あまり期待できないな」と思いながら石段を登った。社は古くて建物は風化された白っぽい感じがする。参拝した後、社の横と後ろを見て回った。取り立てて、何も書き付けが無い。情報は噂だったのだろうか。一旦、境内から外に出て、隣接する時代掛かった居宅の呼び鈴を押した。藍染の着物をきた神主が出てきた。「撃鼓神社の名前の由緒を教えてください」と申し出た。畳に正座した男性は、上がり框を指し、「お座り下さい」という。境内の建物と社と背後の白旗山という配置図を、黒ペンで詳細に書いた図を畳に置いた。神社の歴史が、古文のように書いてある。
神主は、第四十四代の後継神主であり、先祖は鎌倉時代から続く神社であると言い切る。神社の建築が、六百年前に行われたという証拠品が出た。社の改造を、大工に依頼した時「棟木」というのが、天井裏に釘打ちされていた。九州大学から先生が来て、エックス線で撮影したところ、六百年前の棟木と判定してくれた。ペン画の裏側に、神功皇后の由緒も在った。「乳の池」というのがある。三韓征伐の帰り、神社に立ち寄り、乳と水を子供の応神天皇に飲ませたという。「うっかり見逃していました。どこにありましたか」と訊ねると、「私が案内しましょう」という。家の後ろの石段を登って行くと、本殿の前に着く。社の右側を行くと、小さな池があり石碑があった。皇后が乳を飲ませた所であるという。宇美町から峠を越え大分神社から飯塚の曩祖八幡で「いづかまた」と別れた。その後に、この神社へ来たのだという。
撃鼓という名前は、春には笛を秋には太鼓で祭りをしたことで名付けられた。皇后が三韓征伐に行くとき、志賀島の浜辺で、太鼓と笛を鳴らし、進む船を見送り、出発に華を添えたという。年期の入った壮年の神主さんの説明は、語り部のような、迫力があった。
韓国へ出発は、博多港からだった。港から少し離れた所の、福岡市中央区天神に警固神社がある。社伝には「神功皇后の三韓征伐の折、皇后の船団を守護し、勝利に導いた警固大神を祀ったのが始まり」とされている。警固軍勢も合流し、海を越え三韓征伐となる。外国の事なので、詳しく調べることはできなかったが、大きな戦争という物はなく、各国との和議が整ったらしい。一応の成果をあげ、皇后軍団は帰国し、博多港から、南下し、宇美町方面に向かった。
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