第39話 神功皇后の福岡 風治八幡宮の御腰掛石

文字数 1,589文字

風治八幡宮は、田川市魚町にある。昔と違って伊田駅は、新しく近代的な駅舎になっていた。構内にパン屋があり、昼時だったので、調理パンとアイスコーヒで食事にした。
伊田駅前の風治八幡宮の階段を上ると、社があり社務所もある。若い神主も居る。皇后がこの地へ寄って、石に腰掛けたという。封じ除け神社もある。家来の宿祢も祭神として飾られている。
神主に色々と質問をした、国学院大学で神道を修めたという。小倉の篠崎八幡宮に皇后の御腰掛けがある。神主の見解は、「おそらく周防灘方面へ行き、行橋を通って小倉の方に行き、瀬戸内海を航行し都へ行かれたのでは」と主張する。
御朱印帳を風治八幡宮の神職に目の前で作ってもらった。白い和紙を出し、その上に神社の絵を彫ったゴム印を押し、さらに毛筆で宮名などを書いていく。現在、神社での貴重な収入源となっている。平日で暇なせいか、話し相手をしてもらい、御朱印の作成まで目前で観察できた。
帰って行橋方面を、地図で調べると、驚くほど八幡宮が多い。多分、皇后はこの方面から宇佐をめざしたのだろうか、または海から北上したのだろうか。宇佐へ向かう道筋ならば、みやこ町へ向かうはずだが、その中間に立ち寄った神社があるはずである。川崎町の係長は、赤村の大祖神社だと経路の中間になると教えてくれた。
大浦大祖神社は田川郡赤村山浦にある。ナビで探しても分からない。赤村の人口は三千百人であり、山に囲まれ、民家も少ない。農業と林業で、素人目に財政的に成り立つのか思う。「源じいの森」というのは、聞いたことがある。役場で聴くのが手っ取り早い。直方から行橋までJRが運行している赤村駅のそばの役場に行った。山の中腹にあり、近くに民家はほとんどない。
若い男性職員が対応してくれた。パンフレットの地図には載っていない。主要道から外れている。他のパンフレットには神功皇后の御腰掛の石があると書いてある。大体の場所を聞き、車で走った。源じいの森の分岐道を左に入る。坂を登ると道が更に、二股になる。
右の道を進むと稲荷神社があり、傍に一軒だけ民家がある。ベルを押すと、窓から老婦人が顔をだす。「大浦大祖神社とは聞いたことが無い」と言う。
その先は隣の「みやこ町」の標識がある。二股の道までバックした。ヤギが二匹いて、向いに民家が一軒あるので高齢男性に訊いた。「見取りの棚田の先、左側にある」という。
山の傾斜部に棚田が広がっていた、稲の緑葉が帯状に横に広がり、下から上に、段々畑のように植えられている。上に赤屋根の農家が一軒ある。「よくぞ、このような所で、米造りを続けられて居られるな」と、驚いた。更に運転、山間に田圃だけで人家はない。
漸く建物があり、「尋ねなければ、見つからない」と不安になった。呼び鈴を押すと、簡単服を着た年配のご婦人が「下の道の、少し先に神社はあります」と言う。十三軒の昔風の家があり、道がある。「自然な環境で良い所ですね」と聞くと「いいえ、大変ですよ」と答えられた。便利な地域と比べ、苦労しながら農業を行い、家を維持し、この土地で暮しを続けておられるのだろう。
車一台通れる道は九州自然歩道という看板がある。大浦大祖神社の鳥居の隣に素朴な石碑立っており、「皇后御腰掛の石」と彫ってある。ここにも、風治八幡宮に有ったのと同じような、御腰掛の石があった。古い石段を上がると社があった。氏子は少ないだろうし、維持するのは大変だろう。しかし、頑張って地域の神様を支えている様子が窺える。「人間の生活に神様はなくてはならないものなのだ」と感じ、考えさせられた。
皇后がこの道を通るとき、急に風が吹いたので、子供と一緒にこの石に腰掛けた。碁石を大きくしたような、座りやすい石である。「ここに、座られたのか」と石を撫で、遠い昔を想像した。この道を通り、隣接するみやこ町へ進まれたのは間違いないようである。
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