第35話 神功皇后の福岡 シヨウケ越えて大分八幡宮

文字数 1,335文字

将来、応神天皇となる子を出産し、しばし休養した後、王子を竹かごである「シヨウケ」笊笥にいれ、軍勢と共に出発する。
シヨウケ峠は、糟屋郡須恵町・飯塚市の峠である。高度五百メートルもあり、まさに山登りである。急な坂道を皇后は、応神天皇をショウケに入れ、峠を越された。全員が息を切らせながら、山越えをしたに違いない。宇美町の隣の須恵町から飯塚市への最短の道はこの越えである。今でも車で、越えて行く。
急坂を下ると、平地になり、田畑と道路沿いに民家が出現する。下山後、最初にたどり着いたのが、飯塚市大分にある大分八幡宮である。平地の境内は広く、鳥居が並び、由緒の看板があった。「皇后が応神天皇を出産した翌年の春、嘉穂の郡境にある厳しい「ショウゲ越え」を経て、当宮に至り、筑紫の行政を執られた」という。
閑散とした境内であったが、神主に話を聞いた。「以前、大火に合い、神社は焼失した。その後、秋月藩主である秋月種美より多額の寄付があり、再建された」という。神主に、「次に皇后が寄られた八幡宮は何処でしょうか」と尋ねると、神主は「道筋からいえば、次は椿八幡宮でしょう。その次が飯塚にある綱分八幡宮となるでしょう」と話してくれた。
ナビで近辺の地図を見ながら走っていると、道路沿い「椿神社」の鳥居が目に付いた。飯塚市椿に神社はある。近くに居たご婦人に尋ねると「由緒ある立派な八幡宮と聴いています。峠を越えここで皇后が、しばし滞在されたという伝承があります」と話してくれた。椿八幡宮の由緒には、「御祭神は神功皇后命・応神天皇命・竹内宿祢命であり、新羅・百済・高句麗よりの帰途、立ち寄られた。皇后が堅い木で作った剣の鍔を奉納された。八九七年勅命により太宰府政庁が椿八幡宮として創建した」と表示されていた。神主は不在だったが奥様が応えてくれた。「椿の名前は皇后から頂いた鍔からきているそうです。この道を、皇后軍が通り、宇佐八幡へ向かったようです。」と伝承を語ってくれた。
 その後、二十分で飯塚市綱分にある綱分八幡宮に着いた。境内は広いが何もない。左手の石段を上ると綱分宮の社があった。他には由緒書は見当たらない。軽トラできた男性に尋ねると「ここは皇后が立寄られたという。神主の家があるので聞いてみたら」と居所を教えてくれた。
神主は、この近隣の古墳時代から地域の成り立ちを、語り部のように、流暢に話してくれた。綱分地区は大宰府政庁の荘園であり、前の道は官道であり、関越えをして、田川市の方へ行く。ここは筑前といい田川や香春(かわら)は豊前と言った。前の字をとり、重ねれば、筑豊になる。ここは筑豊地区であるという。
皇后の由緒では「三韓征伐し、筑紫も治めた。皇后曰く『なお婦女のただならぬ、身につつがなく皇子やすらかに生させたまうこと偏に神の力なり。しかれば此処において天神地紙を祭り奉らん』と、竹内宿祢に命じ神紙を祭らせ給う。安産のまじないお産の綱を分け、この祭場に納めさせ給う、よって、この土地を綱分けという」ということだった。
神主は、田川市に位登八幡宮というのがあり、そこへ行って見ると面白いと、勧めてくれた。しかし、その前に、地理的に見ると飯塚市にある曩祖八幡宮へ、行ったのではないかと推測した。
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