第32話 神功皇后の福岡 羽白熊鷲と松峡神社

文字数 2,832文字

嘉麻警察署の前を通り過ぎ、国道を南下する。筑前町へ進み、七曲がり峠を越え、長い道程を進軍した。戦人たちは遂に、敵の本拠地近く、松峡神社(まつお)に到達した。松峡神社は、朝倉郡筑前町栗田にある。ここは、熊鷲の領地である嘉麻市や朝倉市も間近である。皇后は小高い丘で、広大な筑紫平野が一望できる松峡神社を熊襲退治の前線基地とした。
大根地神社での宣戦布告から、この地へ来るまで、大勢の軍隊を引き連れ、長い道のりであった。筑前の大己貴(おおなむち)神社あたりで、羽白熊鷲の軍勢が、皇后軍を、迎え撃つ形で、毒矢などを打ち込んできた。天皇の二の舞を皇后に見舞ってやるとばかりに、秋月方面にも出現し攻撃し、皇后軍の戦力を打診してきた。
皇后軍は、在郷の豪族の軍団も参加させ、また射手引軍団の加勢もあり、敵の攻撃にも怯むことなく、反撃を加えた。羽白熊鷲は、「仲哀天皇の時とは、どうも勝手が違うぞ」と、皇后軍の手堅い攻撃にたじろぎ、美奈宜(みなぎ)方面へ、徐々に後退していく。 
皇后軍は先兵として偵察隊を、美奈宜に行かせ、敵の動静を探らせ掌握した。敵の毒矢には、細心の注意を払わせ、軍勢を纏めて、「いよいよ、決戦の時だ」と、檄を飛ばす。熊鷲は地元の地理を知り尽くす。反面、皇后軍は初めて進軍する土地である。山に囲まれ、道は未整備であり、どの土地が有利なのか、どこに敵が隠れているのか、分からない。戦争は大きな賭が随所に、付きまとう。
敵陣を眺め、満を持して、熊鷲軍を叩き潰す機会を狙った。
羽白熊鷲との最大の戦いは、朝倉市矢野竹である。現在の行政法人「あまき水と文化村」周辺が、主戦場となった。実際に、私は、この近くに二度、行って捜したが、自宅から二時間もかかり、人も居なく、場所が特定できなかった。文化村の近く、三叉路にある家で、情報を聞いた。留守番の若い娘さんが出て来られ、こちらの説明を聞き、地図を見てくれた。が「大昔のことで、私には分かりません」と言われた。諦めて、先の道を進むと、倉庫で作業されている中高年の男性が居られた。声を掛けると、祖父等から、昔話での皇后と熊鷲の戦いを、聴いていたようだった。顔を輝かせ、言い伝えを話してくれた。「後ろの山が障子岳といいます。あの頂上の障子のように立っている樹間から、皇后が弓矢を放ち始めると、射手引軍勢も竹野矢を、大量に放ちました。この地区は竹野矢と呼び、そのときの名残です。眼下に居た羽白熊鷲の心臓を射抜き、とどめをさした。敵軍勢は一挙に崩れ、四方に離散したと言います」
曾祖父からも、神功皇后の伝説は、何回も聞かされていた。大事なことを語り継いだ嬉しさに、安堵したような顔付きをされた。
水と文化村は無料で見学できる。この一帯は桑畑だったが、三十年前、水と文化村となった。美奈宜湖も作られ清純な水の村として世界に発信されている。寺内ダム管理所の説明板では「水のせせらぎを身近に感じてもらう日本一の階段があります。マイナスイオンいっぱいの水のカーテン部分は、カナダのナイアガラの滝にヒントを得て設計されました。滝くぐりを体験できます」と。あいにくと休業しており、水は上から流されてなく、水飛沫を体験できなかったのは残念である。熊鷲一族は、近辺の山賊であり、住民から財物を巻き上げていたと昔の人が語り次ぐ。
他面、大和朝廷を承認しない代わりに、住民には良い施策も行ったという人もいた。
敗軍の将である羽白熊鷲の墓は、小さな石だった。文化村敷地の中にあった。建設時、あまりにも地元の英雄の墓石にしては、小さく粗末すぎると、文化村の芝生の敷地へ塚を移転した、直径三メートル高さ二メートルの円錐形の塚が盛り上げられ、説明板がある。「仲哀天皇時代、木免(きつ)の国(筑紫の国)に未だ、皇命を奏ぜぬ部族あり、其の長は羽白熊鷲という。荷持田(のとりた)に盤踞し、権力遥かに想像を絶する。神功皇后、新羅征討の途次、香椎宮に出陣中なりしが、かかる形成を関知し、先ず内患を絶つことの急務なるを悟り、従駕の臣、武内宿祢等と審議の末、巨魁羽白熊鷲を征伐することに決した。仲哀天皇九年三月、香椎宮を経て、松峡宮(まつおみや)に至り、激戦死闘の結果、終に層増岐野(そそぎの)に於いて、強敵羽白熊鷲の軍勢を殲滅。このとき、聡明且つ
沈着な神功皇后は、左右を顧みて「収得熊鷲我心則安」熊鷲を征伐し、私の心はやすらいだ、とのたまう。羽白熊鷲の覇権の強大さここに歴然たり。我が郷土に一世を風靡せし人物を知らず。いま彷彿として羽白熊鷲の雄姿脳裏に去来す。永遠不滅の羽白の顕彰碑を建立」と地元民に英雄として遇されていた。上秋月の愛宕神社前付近の「椿の森」で決戦が行われ、敗れた羽白熊鷲は今の寺内ダム付近に後退し、羽白熊鷲軍は矢野竹に陣取り、皇軍は西の小高い山・喰那尾山(くいなをやま・栗尾山)山頂に陣を置き、寺内ダム湖付近の荷原(いないばる)で最後の戦闘が行なわれた。と朗々たる文で石に刻まれている。
羽白熊鷲の塚から寺内ダムの側を通り下り坂を運転していくと、神社に着く。
美奈宜神社は、朝倉市荷原寺内にある。神社内の掲示には神功皇后と羽白熊鷲の戦いの由緒は何もない。戦いの後、坂を下り平地から松峡神社に戻ったと思う。下りた美奈宜神社に由緒が何も無いのはおかしい。
社務所の呼び鈴を押した。しばらくすると老婦人が顔をだした。多分神主は留守のようだ。老婦人に皇后や羽白熊鷲の話をするが「そういう話は聞きませんね」という。「神社の説明書きがあるのであげましょう」という。書き物をもらったが読まずに、「どうも納得できない」、と近所の二軒の家を回った。いずれも「昔のことで分かりません」と中高年者の男女は言う。矢野竹地区では農家の親父さんが、熊鷲と皇后の戦いぶりを、曾祖父からの口伝を、見てきたように説明してくれた。年代的には同じように見えたが、興味のない人には、覚える必要のない無駄かもしれない。車に戻り神主宅で貰った書類を確認した。
この書付けには、神功皇后のことが書いてある「第十四代仲哀天皇は急に病気になり亡くなられた。神功皇后は、このことを秘めて竹内宿祢を従えて敵対する羽白熊鷲を打つため小山田村を軍立ちされた。その時射手引軍を率いてこられた。当時、熊鷲は白髪山(古処山)を本城として良民を苦しめていた。皇后は喰那尾山(栗尾山)に陣を布き、武内宿祢との軍略を練り、これを討ち取られた」、と神社創設の所に書いてあるではないか。頭の記憶だけでは、消えていってしまう。あった事実は文書残しておくべきだ。役に立つ。
 この戦勝を掴み取るまで、頼れるのは己のみ、思い悩み苦しんだ。神に祈り、部下を信頼、的確な決断で、羽白熊鷲を倒すことができた。重荷がとれ、並外れた安堵の感情があった。
都へ戻れればいいのだが、三韓征伐をやり遂げなければ、仲哀天皇の義理を果たせない。己に鞭を打ち、次の敵に向かうことになる。
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