第29話 神功皇后 の 福岡 埴生神社で船魂を祈念

文字数 5,206文字

はっきりさせる旅へ
 私の故郷である福岡県中間市に、埴生神社というのがある。池の赤い太鼓橋を渡った先、百段の石段を登ると、社に着く。社の右手前に掲示板があり、神社の由緒が書いてある。「祭神は仲哀天皇・神功皇后であり、この地で船魂を祈念した」という。「こんな片田舎に、本当に来たのか。あんな偉い人たちが」と、驚き、疑い、不思議に思った。
「大昔、天皇が、どんな方法で、何故来られたのか?」疑問が渦を巻く。現在の天皇は、憲法で国の象徴と定められ、人間宣言もされている。だが、第二次世界大戦前における天皇という者は、神聖で侵すべからずの、厳粛なものだった。初代の神武天皇以来、絶対的な権力者で、神様と同等のものであった。
天皇の妃である神功皇后の行動も、古事記や日本書記に記述されている。日本書記や古事記は、戦前の日本では正当な歴史書とされていた。敗戦により天皇は人間であると宣言された。皇室そのものの見方が変わり、歴史書として、国は認めなくなった。神功皇后に対する多くの研究や愛好者の本が出版されている。歴史を、後世の者が知り得るのは、書物と遺跡である。伝聞は、真実である場合もあり、虚構である場合もある。神功皇后の行動は、実際には存在しない作り話しではないかという説も多い。事実に基づく伝説か、虚構の噂話か、神社を回って見てみれば、何か大切なものを見付けることはができないか。
絶対権力者は、考えが世間的には間違っていても、盲信する人々により、支持され、支配体制が確立し、存続することも、多い。ロシアのプーチンや、中国の習近平、アメリカ共和党のトランプなど、絶対権力者と思われる例である。過去にも同じような人間が大勢いる。反面、英雄とされる人々もいる。
西暦二百年頃の、神功皇后の行動は、多くの人により、信奉され、賞賛されていた。結果、方々に伝承として残っている。
皇后の云い伝えのある、近くの神社を、回って、実際に存在したのか、行動したのか、探って見たくなった。福岡での神功皇后の物語を、自分なりに想像してみたいとも思った。
仲哀天皇・神功皇后が、福岡でどのように動いていたのか、旅のイメージ作りには、行程の確認が必要である。私は、福岡北部周辺の道路地図をコピーし、貼り合わせた。畳三枚の大きさになり、部屋に拡げた。皇后の滞在場所で私が訪れた後の、赤マークをつけ、追跡することにした。
埴生(はぶ)神社は、実家から歩いて五分の福岡県中間市垣生にある。由緒を見ると、「当時は大きな埴生の郷と呼ばれ、遠賀の六郷の第一の神社とされた」とある。中間市を南北に流れる遠賀川(おんががわ)は、英彦山(ひこさん)を源流とし、筑豊地方を通り、芦屋の港で響灘へと流れ込む。現状では、埴生神社から芦屋港まで十キロの陸が続く。古代船で筑豊の上流まで、人力で漕ぎ上がるのは困難である。中間市歴史資料館の展示を見ると、昔は埴生神社近くまで海が広がり、古遠賀湾と言っていた。また、遠賀川付近は大陸より最初に、米栽培の技術が伝わった場所でもある。埴生神社から筑豊に懸けては、平地が広がり、穀倉地帯だった。弥生時代の洞窟や貝塚なども発掘され、住み易い場所で、豪族もいたのだろう。天皇と皇后が埴生神社に来臨され、船団の安全を祈願され、地元の豪族から食料も調達したというのなら、話しの筋道が通る気がする。天皇・皇后が、福岡の地へ足を踏み入れた所から追っていくことにした。
熊鷲征伐という目的で、大和の国を出発され、山口の忌宮神社で一年間、滞在され、武器や軍団を整えられた。山口から瀬戸内海を航行し、九州の突端で、若松に接岸された。 
若松惠比須神社は、北九州市若松区浜町にある。由緒を確認すると、「今から約千八百年前、仲哀天皇が神功皇后とともに筑紫野の国へおいでになった。洞海湾に、岡県主熊鰐(くまわに)が出迎えた。天皇は外海を、皇后は内海を進まれた。皇后の船が洞海湾を進まれた時、お伴の武将の武内宿禰(タケウチノスクネ)の命令で漁夫に海底を調べさせた。海底から清らかで光り輝く玉石を発見し、献上した。天皇はご覧になり、「これは海の神が、筑紫の船旅を守ってくださるという御心の印であろう」と、大喜びされた。武内宿禰が近くの浜辺に船を寄せて上陸し、この霊石を祀ったのが、若松惠比須神社の御鎮座の始まりである。この霊石は当神社の御神体として、本殿の奥深く荘厳に鎮まっておられます」と記載されている。
若松港にある石碑にも、「仲哀天皇と神功皇后が立寄られ、この時、お供をしていた武内宿弥が、『海原の滄瞑たる、松の青々たる、我が心も、若し』と刻んである。北九州市若松区の地名になった。
その後、若松から洞海湾に入り皇后崎に着く。接岸した場所に、[皇后上陸の石碑〕が建っている、昭和九年戦前の公認された物だ。場所は台地になっており、洞海湾付近の眺めが素晴らしい。後方は帆柱山に皿倉山が控えている。上陸された皇后はまず、岡田神社を表敬訪問された。
岡田神社は、北九州市八幡西区岡田町にある。由緒には、「仲哀天皇の時代、恭順した崗県主熊鰐の案内により、神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭した、と記事が日本書紀に載る。主祭神は初代神武天皇である」という。仲哀天皇と神功皇后は、子孫であり、「本宮は初代の天皇である」ことを強調したいのだろうか。現在のこの神社は、商才に長けていて、御朱印帳などは何十種類もある。
皇后は、近い場所にある一宮神社を滞在先の行宮とされ、船団の体制を整えられた。
一宮神社は、北九州市八幡西区山寺町にある。由緒には、「この神社は、神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこの地においでになり、一年間政務を見られた」とある。神武天皇が日々、祈祷された[磐境神籬(いわさかひもろぎ)]という神聖な場所が残っている。手前に、円形に小石を積み上げ、後方に、四角く小石を積み上げてある。国学院大学の教授が調査し、「日本に、一個所しかない古代斎場の跡である」と認定された。木立に囲まれた、厳粛な場所である。
軍団は、帆柱山で木を切り出したり、皇后岩から「更に暮れる」といい、皿倉山と名付けたりした。北九州市八幡西区には、神功皇后の逸話に因んだ町名が多い。
別の神社で模型船を見たことがあるが、西暦一九九年頃の木製の船は、片側十人、両方合わせて二十人で櫓を漕ぎ、船を進めていた。海辺は波も荒いし、洞海湾に入り上陸し、体制を整えるのに、都合がよかった。
体制の整った軍団は、芦屋地区の岡湊神社や高倉神社を参拝し、前進していく。
岡湊(おかみなと)神社は、遠賀郡芦屋町船頭町にある。由緒の掲示板には、「古事記では長府から瀬戸内海を通り、遠賀地方の豪族である熊鰐が水先案内し、芦屋町の岡湊神社に留まった」と、書いてある。しかし、次の高倉神社が本宮であり、岡湊神社はその外宮であるということが後で、分かった。
次は、遠賀郡岡垣町高倉に鎮座する高倉神社である。由緒では、「仲哀天皇八年正月、筑紫に行幸した時、洞海湾の豪族で岡県主の熊鰐が出迎え海路を案内した。天皇の船が山鹿岬を巡って、遠賀川河口に入ろうとした時、船が進まなくなった。天皇がその理由を熊鰐に尋ねると、大倉主神と菟夫羅媛の男女の二神が引き止めているという。天皇はすぐ二柱の神に祈祷神事を行ったところ、再び船が進むようになった。」という。神社縁起では、「仲哀天皇の一行はしばらく当地にとどまって熊鷲攻撃の作戦を練り、諸軍に命じて武器、弓矢を整備させた」と伝えている。この時、「岡垣の高津峯に、国を守る神々が天下っている」、と熊鰐に教えられて、神功皇后は高津峯に登って戦勝祈願をした。綾杉明神の由緒には「この綾杉は神功皇后が三韓征伐より無事凱旋され、御礼参りの際、植えられた」とある。神官は「高倉神社は日本書紀に出てくるが、古事記には出ていない。しかし芦屋の岡湊神社は高倉神社の外宮だった」と話してくれた。
遠賀川を上流に登って、筑豊から筑前の嘉麻市あたりに、行くことができれば、熊鷲の本拠地に、地理的に近い。しかし船で、手漕ぎで登るのは、不可能に近い。そんな事もあり、玄海灘の港々を寄稿し、香椎あたりから、南下するのが、合理的であると、竹内宿祢の判断したのを採用されたと思われる。神社の前に古民家を改造した「やこりんごという」店がある。昔風のガラス窓の向こうに、若いカップルが何か食べている。引き戸は古くて開けにくい。中に入ると立派な梁と古い天井に電気コードのソケットも時代物である。女店主の手造りケーキとコーヒーを、堪能した。太古の昔のたたずまいと現代のカフェを、マッチさせ高倉神社を大切にしようとする地元民の心が窺える。
高倉神社から、玄界灘添いに船団は航海し、途中の宗像大社の近くでも着岸された。
宗像大社は、宗像市神湊(こうのみなと)にある。私の家から三十キロ離れた所にあり、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。年始に、参拝することもあったが、古い時代への思いは、まだ関心がなく、無知だった。五世紀頃、宗像一族が居住し、大島・沖ノ島周辺を漁場とし、海人と呼ばれていた。豪族の亡き後、構築された奴山古墳は、宗像氏の前方後円墳や円墳が残り続け、栄華の在りし時代を偲ばせてくれる。海人は、大島や沖ノ島を経由して朝鮮半島や中国への渡航を生業としていた。大和朝廷の役人たちも、海人の船で大陸へ渡り、多くの文化を学び、帰国後、我国へ導き入れ定着させてきた。宝物院で展示中の、中国から送られた金の指輪は「言わず持ち帰らず」の掟のある沖津宮の祭事跡から発掘された。指輪は千五百年の時を経ても黄金色に燦然と輝いている。時を経ても錆びることのない黄金は、稀少価値として、現代も金本位通貨制度の主役である。当時使っていた船は原始的なもので、展示館には木造の平船に二十人の漕ぎ手がいる模型が飾ってあった。神湊から朝鮮半島までは百二十キロの距離がある。穏やかな海であっても、一日以上かかる危険な航海である、遭難で海人も亡くなることも多く、荒れた海を恐れ、神に祈りを捧げた。
 古事記には「天照大神が三女神に神勅を下し、田心姫は沖ノ島の沖津宮、たぎつ姫は大島の中津宮、市杵島姫(いちきしまひめ)は宗像田島の辺津宮で地域の子孫を守るように」という記述がある。地方のあらゆる所に神社があり、土地の守り神として、崇められる。神社の「鎮守の杜としての始まり」をこの地に見ることができる。辺津宮の奥へは私も行ったことがなかったが、石段を百段ほど登った所に高宮祭場がある。途中の石段で、重いトランクを抱え登っている男性がいた。横浜から旅行し、世界遺産の見学にきたという。ユネスコの登録で、多くの人が訪問する。有名になり経済効果も上がるし良いことだ。
石の祭祀場では千五百年もの間、毎日、神主が祈祷を続けている。巨石の周りを巨木が囲み、木漏れ日はパワースポットを感じさせた。人は神様がいることを信じ、崇め、航海の無事と人々の安寧を御願いし祈る。古き良き時代のものが今も尚、宗像大社には脈々と続き、栄えている。
天皇と皇后は、福津市宮司元町にある宮地嶽(みやじだけ)に立ち寄った。由緒には、「創建は、約千七百年前。当社のご祭神は、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)で別名、神功皇后は、渡韓の折、この地に滞在、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、『天命を奉じて、かの地に渡らん。希わくば、開運を垂れ給え』と祈願され船出した。神功皇后の功績をたたえ主祭神とした」とある。
宮地嶽の社殿に巨大な注連縄が下がっている。大きさ日本一で十二月十八日に掛け替え初穂料三千円と書いてある。神社も存続を掛けて、色々な行事に手を付け、過去の栄華を維持しようと必死である。どれが本来の目的であるのか、ぼんやりしそうな傾向もある。
ジャニーズの嵐で、有名になった階段の最上から眺める西日は真っすぐな道路の先の海上にあり、厳かな景色となる。若いカップルが、浪漫を夢見て、全国からやってくる。
本殿を参拝の後、上の方へ登っていくと七つの神社が祭られている。神官も見習いを含め十五人いると言う。不動神社の前で、白袴の神官に確認すると「十五分で奥宮に登れる
でしょう。」と言う。下山途中の高齢男性に聞くと、「その革靴では登れない、普通の登山道で急坂がある」と忠告する。ここまで来たからには、皇后の見た景色を、体験しなければならない。息が切れ、坂道に心臓がドキドキ悲鳴をあげる。三十分掛かり「山頂古宮跡」に着いた。皇后は、多くの山登りを経験している。若いうえに、強靱な体力と、根性ある女神だったに違いない。宮地獄は、大昔から広い神田を持ち、食材の蓄えも多かった。天皇には大量の貢物を奉献し、送り出すことができたはずである。
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