第17話 神功皇后の福岡 氏子が守る位登八幡神社

文字数 803文字

綱分八幡宮の神主さんに、位登八幡宮へ皇后は行ったのではないかと、話をされていた。国道201号腺から、南へ入る県道458号線の細い道を、暫らく走る。位登八幡神社があった。入口に古い踊りが無形文化材になっている。鳥居を過ぎ階段を上がると社には大きな注連縄が飾ってある。由緒書きはない。下のお宅に尋ねると、神主さんは飯塚の曩祖八幡宮(のうそはちまんぐう)の神主をされてそちらに行かれ、夜こちらの自宅帰られる、氏子の私たちは日常の掃除を抜かりなくやっているという。曩祖八幡宮をネットで調べると次のようになっている。神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。社伝では、その跡に作られたのが当社であるといいます。なんと、神功皇后は飯塚の曩祖八幡宮で軍を解散されたのだ。そうすると宇佐神宮へ行かれたのではなく、行橋の方面に八幡宮がやたら多い。多分そこを通り
周防灘の方へ行かれたのだろう。宇佐神宮にもよられ、豊前・行橋・小倉のほうへ進まれたのだろうと推測した。位登八幡神社の神主の親類にあたる長屋門のある内の毛利さんにお会いした。由緒はないが、家にある子文書の写しを見せて頂いた。この神社に神功は子供と寄ったという記録がある。夏日の暑い中、奥さんも話に加わってもらい、大昔の物語をしてもらった。高倉山を越えて、稲築の方へ行ったのだろう。私は熊襲退治の時、岩﨑八幡宮、稲築八幡を通り、美奈宜神社の方へ進軍されたと推測する。毛利さんが、伊田駅前に神功の御腰掛けの石があるので、そちらに何かあるからと進めた。322号線はすぐ近いし香春に採銅所があり宇佐八幡へ銅鏡を送ったのでその道を神功皇后は行かれたかもしれないという。
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