第16話 神功皇后の福岡 藁積を敷き饗応した稲築八幡宮

文字数 727文字

国道211号を南下していくと道造に鳥居があった。これが道路マップに八幡宮と表示されたいたものだ。由緒の看板はまだ新しく、ここで神宮皇后が軍勢と共によられた。村では、立派なもてなしが出来ないが藁積みを敷いて、軍勢を饗応したという。皇后は稲藁を小山の頂に七尺彫って稲束をうめたという。それから稲築という地名になったという。町村合併の前は稲築町と言っていた。最近。昔の神主さんがかなりの寄付ををされ、神社を整備されたようである。道の掃除をしたオジサンに話を聞くと、詳しくこの地の歴史を語ってくれた。この地域は穀倉地帯で豪族が多く、前方後円墳が数か所存在する。向いの小山にあった神社を、この国道沿いに移転したと言われている。氏子総代は別の所に今でも住んでいる。伯父さんの子供の頃聞いた話では、皇后は参観征伐を終え、応神天皇を宇美町で産み、暫らく滞在したが、シオケ峠を越えてこの神社を通り、行橋の方へ行き、船で大和の都のほうへ帰っていったときいているという。私はまず皇后は宇佐八幡宮へ行き、その帰りに行橋方面から船で帰ったのが道筋ではないかと思う。着たついでに嘉麻警察の近くの大隈の方に行った。この地も皇后が子の応神店のに水をのませ、乳も飲ませ乳房の杜と呼ばれた場所がある。マルシェという安政の頃から呉服屋を遣り娘さんが後を付きコーヒ店に寄った。以前寄ったことがあり若いご主人に話を聴いた。歴史が好きで、見せに神功皇后物語の本が置いてある。ユーチューブで○○さんが神功皇后の事を書いている参考にされたらトアドバスしてくれた。詳しく深くいろい範囲で、画像や文章をアップされており、その知識と考証には圧倒された。とても太刀打ちできないが、私は私の道を行こうと思った。
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