第7話 神功皇后の福岡 日本書紀の高倉神社(岡垣町)

文字数 722文字

高倉神社は岡垣町にある。入口の由緒石盤には、「産土神神の大倉主と菟夫羅媛の二神を祭り神宮寺として多くの坊を有していた。1559年大友宗麟の軍勢に焼かれ、その後宗像氏、小早川氏、黒田氏の力で復興された」とある。奥の木製掲示板には「仲哀天皇8年正月、筑紫に行幸した時、洞海湾の豪族で岡県主の熊鰐が出迎え海路を案内した。天皇の船が山鹿岬を巡って岡の浦(遠賀川河口)に入ろうとした時、船が進まなくなった。天皇がその理由を熊鰐に尋ねると、大倉主神と菟夫羅媛の男女の二神が引き止めているという。天皇はすぐ二柱の神に祈祷神事を行ったところ再び船が進むようになった。」という。高倉神社の縁起では、仲哀天皇の一行はしばらく当地にとどまって熊襲攻撃の作戦を練り、諸軍に命じて武器、弓矢を整備させたと伝える。この時、岡垣の高津峯に国を守る神々が天下っている、と熊鰐に教えられて、神功皇后は高津峯に登って戦勝祈願をした。綾杉明神祠由緒には「この綾杉は神功皇后が三韓征伐より無事凱旋され礼参りの際、植えられた」とある。神官は「日本書紀に出てくるが高倉神社は古事記には出ていないが、芦屋の岡湊神社は高倉神社の外宮だった」と話してくれた。神社の前に古民家を改造した店がある「やこりんご」昔風のガラス窓の向こうに若いカップルが何か食べている。引き戸は古くて開けにくい。中に入ると立派な梁と古い天井に電気コードのソケットも時代物である。女店主の手造りケーキとコーヒーを堪能した。木・金・土の営業である。高倉神社へは山口から来たとき仲哀天皇と山に登った神功皇后が寄っている。200年春の頃か。その後でも、神功皇后は三韓征伐より帰った時に王子を連れて寄っているのである。
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