第2話 神功皇后の福岡 皇后崎へ上陸 八幡西区  

文字数 1,476文字

北九州市八幡西区皇后崎という場所に、ここから神功皇后が上陸したという石碑が建っている。小高い台地であり、北を眺めると洞海湾が一望できただろう。昔、この付近一帯は海であり、下の浜辺に船を着けたのだろう。東を向くと皿倉山と帆柱山が見える。1キロ先の一宮神社を行宮とし、暫く軍団と共に滞在したらしい。仲哀天皇と皇后が、近くの岡田宮へも参拝したという伝承が残っている。
 皿倉山に登ると皇后岩がありそこから海を眺め、夕方、「更に暮れるか」といい、皿倉山と命名したそうだ。船団の帆柱を作る為、木を切り出したので帆柱山と命名された。その後、仲哀天皇と神功皇后は洞海湾から響灘に出て、芦屋の岡湊神社に寄られた。これは、古事記にも記載されている。芦屋町から中間市まで10kmの陸地であるが、当時は海であり,古遠賀湾とよばれていた。岡湊神社の後、湾の奥にある中間市の埴生神社に着かれ、航海の安全を祈り船魂を祀られたという。
 再び、芦屋に戻り、玄海灘を岡垣町の「高倉神社」に寄られた。仲哀天皇の一行はしばらく当地にとどまって熊襲攻撃の作戦を練り、諸軍に命じて武器、弓矢を整備させた。この時、岡垣の高津峯に国を守る神々が天下っている、と熊鰐に教えられて、神功皇后は高津峯に登って戦勝祈願をした。その後、次の寄港地である福津市の「宮地嶽」に寄られたと思うのだが、由緒には「創建は約1700年前、祭神である息長足比売命(神功皇后)が、渡韓のおり宮地嶽に滞在され、山頂に祭壇をも受け、天命を奉じてかの地に渡らんと祈願された」となっている。実際に山頂の古宮跡まで登って、皇后と同じ体験をしてみた。神社のコンクリートの道が途切れると、完全な山道になる高齢の男性に会って道のりを尋ねたが「そんな革靴ではこの山道は登れない」と言われた。何回も息切れしながら30分かけ頂上に着いた。鳥居と掲示板があり「ここで皇后が三韓方角を見ながら祈祷された」と表示してある。宮地嶽の社殿に日本一巨大な注連縄が下がっている。また「ジャニーズの嵐」で有名になった階段の上から眺める西日は真っすぐな道路の先の海上にあり、厳かな景色である。正月は車で2時間待ちの行列になる。
 長門から航海を続けた仲哀天皇の軍団は熊襲退治の本陣として香椎宮を行宮として滞在することになった。神のお告げが朝鮮征伐をするよう指示されたが、仲哀天皇は反抗し、熊襲征伐に進んだが、病気となり、香椎宮で亡くなられた。現在でも仲哀天皇の墓碑がある。宮内庁でも仲哀天皇の亡くなられた場所であり、10年に一度勅使が来て、祈祷する。今、宮内庁職員の宿泊場所が建設中である。令和6年に祈祷の式典が行われる。神功皇后は仲哀天皇亡きあと、熊襲征伐へ南下する。嘉麻市にある大隈宿の傍に乳房の杜があり皇后が妊娠しており乳房が張るので水を飲み腰掛けた石がある。その先の筑前町弥永で大己貴神社があり、そこの熊襲が皇后の言うことを聞かないので征伐したという。これが熊襲征伐であったのだろう。ここまでの経過は、実際に行って、見て話を聞いたもので、神社の由緒として残っている。実際の足取りとして、可能な状況であり、事実と符合するように思う。皇后の出身は滋賀県守山市だとかいう。邪馬台国の本が守山市の遺跡発掘で、佐賀の吉野ヶ里と同じような物が出土したとして、邪馬台国の卑弥呼説が出ている。神功皇后は卑弥呼だったのではないかと言われているが、守山市出身の皇后がその種をまいていたのかもしれない。これから少し神功皇后の足跡を実際に行って確認してみようかと思っている。
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