第6話 神功皇后の福岡 椿神社(飯塚市)

文字数 989文字

"飯塚市大分八幡宮(福岡県飯塚市大分1272)”
神功皇后が応神天皇を宇美で出産した後、宇佐神社を目指して、行幸を続けられた。まずは、宇美八幡宮からショウケ越えをされた。皇后が最初に立寄ったのは、飯塚市の大分(ダイブ)八幡宮であった。境内は広く鳥居が並び、由緒の看板があった。「神功皇后と応神天皇が祭神となっており、皇后が応仁天皇を出産した翌年の春、嘉穂の郡境にある厳しい「ショウゲ越え」を経当宮に至り、筑紫の行政を執られた」という。 閑散とした境内であったが、神主に話を聞いた。以前大火にあい神社は焼失したが、秋月種美より多額の寄付があり再建されたという。次に皇后が寄られた八幡宮を尋ねると「道筋からいえば、大分八幡の次が椿八幡宮である。その次が飯塚にある綱分八幡宮だろう」と話した。
"飯塚市綱分八幡宮(福岡県飯塚市綱分)”
 大分八幡から車で20分で綱分八幡宮に着いた。境内は広いが何もない。左手の石段を上ると綱分宮の社があった。他には由緒書は見当たらない。軽トラできた男性に尋ねると「ここは皇后が立寄られたという。神主の家があるので聞いてみたら」と居所を教えてくれた。境内に隣接する広い家である。神主は松岡さんといい、中間市の月瀬八幡宮の佐野神主と懇意であると話す。
この近隣の古墳時代から地域の成り立ちを語り部のように、流暢に話してくれた。綱分地区は大宰府政庁の荘園であり、前の道は官道であり関越えをして、田川市の方へ行く。皇后は採銅所のある八幡宮へ行かれたのだろう。銅が採れ、宇佐神宮の銅鏡を作ったそうだ。ここは筑前といい
田川や香春(かわら)は豊前と言った。前の字をとり、重ねれば、筑豊になる。ここは筑豊地区だったという。田川市に位登八幡宮といい、あるらしい、次回行って見ることにした。八幡宮を回れば回るほど、疑問だったことが、解けてきた。知らない数多くの由緒があり神功皇后・仲哀天皇・応神天皇の足取りが少しづつ分かってきた。これだけ神社が残り、伝承が筋道通りであれば、単なる作り話ではないような気がする。一般人の伝承というより、宮司さんに話を聞くのが、詳しく実態が解けていくような気がする。ツアーとして皇后の足取りを尋ねる企画も面白いと思う。神功皇后と応神天皇が三韓征伐を終えて、宇佐八幡宮へ向かう。201年○○月頃頃か
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