第3話 神功皇后の福岡 一宮神社の磐境神籬(八幡西区)

文字数 1,108文字

神功皇后・仲哀天皇の旅行記を作るのに行程の確認が必要だと思い、福岡西部方面の地図をロードマップをコピーし作成した。畳2枚の大きさになった。皇后の滞在した場所に赤マークをつけた。若松から洞海湾にはいり皇后崎に着く。接岸した場所に、皇后上陸の石碑が建っている、昭和9年の公式のものだ。その場所は台地になっており、洞海湾付近の眺めが素晴らしかった。後方は帆柱山に皿倉山が見える。上陸し、仲哀天皇と共に一宮神社を行宮にされた。当神社は初代神武天皇が1年間留まられ祈祷された「磐境神籬」という天皇が祈祷された場所が残って居る。国学院大学の教授が日本に一か所かない古代斎場のあとであると認定された。皇后と天皇はその後、洞海湾を出航し、若松の岡湊神社で仮住まいされ、これは古事記にも記載されている。遠賀川近辺は、昔は海であり、古遠賀湾といわれていた。そこを通り中間市の埴生神社に仲哀天皇と共に寄られ、船魂を祈祷された神社由緒に表示されている。その後、芦屋に引き返し、海路を玄海灘で岡垣や宗像を過ぎ、香椎宮へ到着され、そこを行宮とされた。海の近くで有り、ここから陸路で熊襲退治に出発された。韓国を攻めるよう神のお告げがあったが「韓国は何も見えないし、熊襲から退治すべき」と仲哀天皇が主張された。香椎は平地であり、海から眺めでは韓国は見えなかった。神罰で仲哀天皇は病に倒れ、香椎に戻り52歳で逝去された。皇后は悲しみに打ちひしがれた。世間に知れないよう、天皇の死骸を久山市の齋宮(いつきのみや)に家来100人と共に運ばれ、皇后が神官となり弔われた。行宮は聖母(しょうも)屋敷で暫く住んだ。聖母とは皇后の事をいうと久山教育委員会の課長に教えて貰った。この地域は皇后の伝承が沢山残っている地域である。齋宮の裏にある山田小学校が令和2年の授業として「わたしたちの齋宮ものがたり」絵本を作成し発刊していた。近くに審神者(さにわ)神社があり、祭神中臣烏賊津主(いかつみ)という人物が祈祷師として使われ、熊襲、韓国との戦闘を占って貰った。天皇の遺志を継ぎ、実行する事になった。久山町は小さな山々に囲まれていて、田がぐるりと広がり、里山の落ち着いた自然環境である。北の方の山は三岳と遠見岳がある。その麓に猪野大御神の神社が有る。遠見岳の登山道を登ってみた。きつい登りもあるが木々に囲まれ晩夏でも涼しい。1時間後に辿り着いたが、頂上は展望が開け、西日が落ちかけ、博多市街地や海に島々が眺望できる。神功皇后がこの位置で韓国を確認し、戦闘の志を固められたという石碑が建っている。展望の方角石盤が左博多のタワー、右に沖縄、壱岐対馬、その先が韓国が見える

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