第10話 神功皇后の福岡 埴生神社(中間市)

文字数 862文字

中間市の埴生神社は古くからある神社で千々和さんが神主で歴代続いている。市内に居られる神主さんの二人の内の一人である。埴生幼稚園も運営されて、中間商工会議所の理事でもある。神社には百段の石が階段として登らねばならない。途中の鳥居に、石造りの丸柱があり、これが片側二本の石で出来ている。崩れそうになるのを木枠と金具で補強してある。鳥居の上には小さな石ころが載っている。この石鳥居の形式は佐賀藩にある神社の石鳥居である。態々、佐賀からこの地へ取り寄せた物だろう。社務所に居た神主に尋ねたが分からないようだ。代理神主として勤めておられるだろう。
社殿の横に掲示板があり、「埴生神社の御祭神は、仲哀天皇・神功皇后・応神天応である。」と書いてある。こんな片田舎へ、
「大昔、仲哀天皇と神功皇后とが御船にて、この埴生の地にお着きになり、暫く熊襲征伐の行宮の旧跡にて、航海の安全を祈念され船魂を祀られた」とある。現在、当地は芦屋港まで6㎞位陸続きである。南から北に一級河川である遠賀川が堂々と流れはしてあるが、両サイドは高い堤防があり、堤防下は田圃や住宅が並び立っている。この川を上って埴生神社に来るのは、無理があると想像した。
埴生神社の駐車場に中間市の歴史館が作られたが、その掲示の中に、昔の古い周辺地図が掲示したる。当時は遠賀湾という海であったらしい。神社側は小高い丘になっている。低い場所に弥生時代の洞窟がある。貝をとり食べた形跡も有り、住居にしていた岩穴が沢山ある。発掘されたS土器も多く展示されている。昔は栄えた弥生人が先祖だったのだろう。
この近辺は海だったのである。江戸時代に堤防を造り、埋め立てたと黒田藩の歴史にはある。
西暦199年ころとはいえ、天皇は神様だと信じられていた時代、この地へ仲哀天皇と神宮皇后が御来所されたのである。行く先々の豪族は、天皇に頭を下げ、供物を奉納していた。埴生の近辺は稲作地帯である。多分、この地の豪族が、天皇の船に食材や宝物をたっぷり、積み込んで恭順の態度を見せたのだろうと想像をたくましくした。
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