第31話 神功皇后の福岡 大根地神社で宣戦布告

文字数 2,697文字

皇后は、武内宿祢等と共に軍勢を率い、決死の覚悟で、熊鷲退治の進軍を始めた。齋宮から南下進軍する途中、糟屋郡志免町に下月隈八幡宮がある。由緒には、「皇后がここを通過する時、つむじ風が吹き、皇后の被っていた御笠(みかさ)が飛ばされたという。この土地の地名を「御笠」という。嵐の前の静けさのなか、激しい戦乱の幕開けを感じさせる風雲だった。気を引き締め、疾風怒涛のごとく、皇后軍は、さらに南下し大野城市を通り、東にある太宰府方面へと進んでいった。
竈門神社(かまどじんじゃ)は、太宰府市内山にある。かつて私は、宝満山に登ったことがある。人気ある山で、家族連れで登る人たちが多い。二時間で登れるが、行程は意外にきつい。頂上の見晴らしは良く、博多の市街地まで見えた。神主の説明による由緒では「竈門神社の御祭神は、玉依姫命と神功皇后・応神天皇である。宝満山は鳥海山・富士山に続き、全国三例目の国史跡に指定された。誇れる霊山なのである。山が陰陽道でいう大宰府の鬼門(東北)の位置にあることから、宝満宮竈門神社は『大宰府鎮護の神』として、古くから崇敬されている」という。
皇后も竈門神社に立ち寄っている。神主は「神功皇后が朝鮮出兵の折、宝満山にサイカチの木を植えて『凱旋したら再会しよう』といわた。再会の木は頂上付近にある」という。ちょっと見に行こうと思ったが、二時間かかるし、登山姿でないと、断念した。だが、境内の社の側に、再会の木と同じものが植えてある。「この木に向かって好きな人との再会を祈れば、きっと願いが叶うのでしょう」と親切に掲示してある。縁結びの神のお守りを着想され、女性向けに売られている。
神主から、「皇后は竈門神社を出発して、現在の筑紫野筑穂線の県道上にある、吉木(よしき)そして香園(こうぞの)を通って大根地神社に向かった」と、繋がる道を教えてくれた。
大根地(おおねち)神社は、飯塚市飛び地の内野にある。江戸時代ですら、長崎街道の山家宿から内野宿の間の冷水峠越えは難所であった。現在では山の中腹に隧道を掘り、車で十分位で通過する。この道ができる以前は、くねくね曲がりくねった道路を走っていた。その脇道を長崎街道があり、大勢の人馬が登っていた。
私は今回、実際に大根地神社へ登ってみた。道は車一台が走れる広さで、途中まで運転した。コンクリ道が砕け、でこぼこ、四百メートル程ゆっくり運転したが、掲示板には「ここは九州自然歩道です」とある。他に説明もない。私は「これは歩道であり車道ではない」と判断した。丁度、車を何度も切り返せば、ユーターン出来る道があった。崖から、こぼれ落ちないよう、慎重にハンドルを切り返す。ようやく、県道に車を戻せた。道沿いの広い場所に駐車し再度、歩いて登山に挑戦した。
是非とも、神功皇后の由緒書きの掲示板を、確認したかった。七百メートル登ると少し広場があり、長崎街道の冷水峠の表示がある。下ると内野宿へ行くが、歩道は狭い。峠の左に登ると、頂上が大根地神社である。距離千五百メートルと表示。まだ一時間はかかる。
何故か、ここから道路が整備され車も上がれる。「分かっていれば、車で来たのに」、と愚痴る。風が木々の間から吹き、気持ちがいい。無人の駐車場があり更に、一キロある表示される。三十分過ぎに、緑木の中に赤い鳥居が見えてきた。左脇に大きな石があり、昔の侍が被っていた烏帽子の形をしている。
皇后は石の上に立ち、軍隊に命令を発した。岩の側石に彫られた言葉がある。「神功皇后は羽白熊鷲をご征伐する命令を発せられた」とある。石の上から、下界の筑前・朝倉を見遣り、『仲哀天皇の命に代え、熊鷲を打つ』と戦乱の火蓋を切り戦線布告した。更に法宮の神社まで二十分かかった。赤鳥居に囲まれた社に、賽銭を入れ、拝礼した。
由緒には「第十四代仲哀天皇の死後、羽白熊鷲を征伐するため、この神社に昇り戦への勝利を祈られ、命令を発せられた」とある。ようやく、初めて、神功皇后の進軍由緒の実物を、拝見することが出来た。
皇后の戦さに対する恐れと、断固たる決意が、この場に立った私にも伝わってきた。女性でありながら、長時間の山登りで、気力と体力のいる仕事をこなし、大勢の軍隊を引き連れ、行動する皇后は、逞しい性格である。 
亡き夫を偲ぶ心に、情愛溢れるものがある。皆の気持ちを魅了する。神の加護のみによる楽で、たやすい戦争ではなかった。
大勢の兵隊も体力を鍛えながら、皇后と行動を共にし、士気を高めていく。
下山には一時間を所要した。まさに普通の山登りであった。皇后の片鱗を垣間見ることができ、疲れも忘れた。
ここから松峡八幡宮の方が近いけれど、その前に、少し遠いが、嘉麻の柿木という所に進まれた。射手引(いでびき)神社は、嘉麻市上山田にある。情報を得ながらの旅である私は、噂に聞いた射手引神社に行ってみた。 
百ある石段を登り、振り向いて見ると、横列に家々が並び、小学校の方ま広がり続く、昔の上山田村がそのまま残っている。神社由緒には、「古くは香椎宮・貴船神社と称し、各々別の神社があった。香椎宮は尾浦に貴船宮は柿木に鎮座したものを宝暦十年に合祀し、現在地に社殿を改築し、社号を射手引神社と改称した」という。
社伝には、「古処の山麓や、当地に住む羽白熊鷲なるもの良民をさいなむ。神功皇后これを討伐されるおり、難渋され給う。貴船宮に休ら給いて、天手力雄命を祀り給い、弓矢の加護を祈り給う。雲々の間の光と共に、天手力雄命、天の射手を率いて御加勢給いて征伐かなう。後に、里人香椎宮より御祭神を戴き尾瀬の地に祭る」とある。由緒板の上部には弓を持った武人が弓を弾いている。階段下の駐車場では、数々の提灯が名入りで、何段にもぶら下がっている。境内の社務所に寄って、奥さんの話を伺った。神主は祭りの打ち合わせで、警察署に行っているようで、神社の歴史について、詳しく説明を頂いた。
七月十七・十八日が祭りで、社前で獅子舞の演舞がある。篠笛・和太鼓で構成、家ごとに、家内安全を祈り、舞いながら進行していく。その準備も大変そうである。
かつて上山田村は、炭鉱町で栄えており、神社前の道は石炭を運ぶ鉄道があった。家並みの向こうにも道路があり、商店街が並んでいる。昔の家が所々にあり宿場のような趣がある。神主の奥様は、滑らかな優しい口調で、神社の由緒を語ってくれた。射手兵士の図入りのオリジナルお守りを買った。隣接する建設会社の事務所で女性二人にも説明を聞いた。多く額を寄進され伝統を盛り上げていこうとする気概を感じた。広い社殿も掃除が行き届き清々しかった
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