第12話 神功皇后の点と線 エッセイ

文字数 2,131文字

故郷の福岡県中間市に埴生(はぶ)神社がある。池の真中に赤い太鼓橋があり、渡った先の百段の階段を登ると、社の由緒書きが見える。祭神は仲哀天皇・神功皇后で、当地に立ち寄り船魂を祈念したと記す。「天皇が、どんな方法で何故来たのか」疑問だった。今の天皇は国の象徴で人間である。しかし戦前の天皇は、神武天皇以来、絶対的な権力者で神様だった。
埴生神社の近くに遠賀(おんが)川が流れる。芦屋港まで10㎞の陸が続く。古代船で上流まで上るのは困難である。歴史資料館の展示を調べると、昔は神社近くまで海が広がり古遠賀湾と言った。遠賀地域は大陸より稲作が最初に伝来した。高台の神社から北は穀倉地帯である。地域の豪族が埴生まで船で来た天皇に対して食材を奉納し、天皇は次の航海を続けた。 
隣の北九州市にも皇后逸話は多い。朝廷に反逆する熊襲退治に、天皇は山口の長府から船で九州入りした。響灘の荒波で木造船は傷だらけだ。若松港から波静かな洞海湾に入り八幡(やはた)西の皇后崎(こうごうさき)に上陸した。初代神武天皇が1年滞在した一宮神社を行宮に決めた。船を補修し、木を切った山を帆柱山と名付け、皇后岩から「更に暮れゆく」と言い、皿倉山と命名した。皇后の伝承が多い所である。
古事記では長府から瀬戸内海を通り、遠賀地方の豪族である熊鰐(くまわに)が水先案内し、芦屋町の岡湊(おかみなと)神社に留まったとある。私の父は正月には宮地嶽(みやじだけ)、宗像(むなかた)神社、筥崎(はこざき)宮の三社参参りを習慣としていた。「何か意味があるのか」
これらの神社は天皇・皇后が立寄った由緒ある宮なのだ。宮地嶽の注連縄(しめなわ)は日本一大きい。ジャニーズの嵐が有名にした最上石段から夕陽の眺めは、海と参道が一体となり、桃色の幽玄美になる。後方の山には古宮もある。皇后が頂上で熊襲と三韓征伐を祈念した。
宗像神社は古墳時代から三女神が信仰されユネスコ遺産にもなった。また筥崎宮は、皇后の子供・応神天皇の臍の緒を入れた筥(ばこ)を砂浜に埋め、筥崎宮とした。各宮は大昔から広い神田を持ち、食材の蓄えも多かった。天皇には大量の貢物を奉献し、送り出したはずだ。
筥崎宮の北5㎞に香椎(かしい)宮がある。鹿児島本線に香椎駅があり、私も博多出張では通過していた。今回が初めて参拝だが格式高い神社であることに驚いた。ここで仲哀天皇が逝去され、墓碑もある。今上天皇の先祖であり、宮内庁が10年毎、勅使を派遣、式典を開く。
「なぜここで天皇は死んだのか」。古事記に仲哀天皇が当宮で琴を弾き、神の声を皇后の霊媒で聞く。「三韓には金銀財宝がある。そこを攻めて統治せよ」と託宣された。天皇は「海から眺めても陸は見えない」と反論した。琴の音が消え、心配した武内宿祢が見に行くと、神の怒りで天皇は死んでいたと記す。
他方、日本書紀は、天皇が神の託宣を信じず、熊襲退治に出陣し、勝てずに帰ってきた。そして52歳で急死したと述べる。「事実はどちらなのか」現地調査をした。小郡市の御施(みせ)大霊(だいれい)石(せき)神社の由緒で「天皇は敵の毒矢に当たり、香椎で逝去した」と標示する。理由はさて置き、香椎宮での逝去は間違いないようだ。
天皇崩御の報が流れぬよう、皇后は久山町の斎宮(いつきのみや)で密葬した。聖母(しょうも)屋敷に滞在し、近くの遠見岳に登り、熊襲と三韓征伐を誓願した。私も登ってみたが、急坂の山道で1時間かかった。頂上は展望が開け、博多市街と海、壱岐対馬、宗像方面が一望できる。
「皇后は熊襲退治にどの道を進軍したのか」私は道路地図の福岡県をコピペし、畳2枚分の地図に進軍駐留した宮に赤印を付け、実際に行ってみた。齋宮から南下し、志免町の下月隈八幡宮を通る時、つむじ風で皇后の御笠(みかさ)が飛ばされたという大野城市を通った。
更に太宰府を過ぎ、筑紫野市の藤原八幡宮を経由した。天皇の毒矢事件の小郡市の御施霊石宮に着いた。当神社も25年に一度、宮内庁の勅使が来宮し、大祭する。
熊襲の領地も間近、御施霊石から北東9㎞先の筑前町の松峡(まつお)神社を前線基地とした。広大な筑紫平野が一望できる。地域の豪族・羽白熊鷲(はしろくまわし)は白鳥の羽根を付け舞う霊媒師でもあった。これが熊襲を代表する奴だ。決戦の火蓋が切られた。朝倉市美奈宜で戦い、皇后軍は、羽白熊鷲を追撃し、最後に殺した。戦後、皇后は「心が安らぐ」と言い、この地方を夜須(やす)と呼ばれている。
引き続き、新羅・百済・高麗の征伐に向かうことになる。筑前町に大己貴(おおなむち)神社を創建、剣を献げ祈念した。兵隊が大勢集まり、砥上神社の池で武器を研がせ戦に備えた。その後博多の警固神社に進み、警固軍勢も参加し三韓征伐となる。戦わず各国と和議が整った。
帰国後、皇后は応神天皇を出産した。その地を宇美神社と名付けた。私が訪れた時も、若夫婦が赤子を抱えお祓いをして貰っていた。
半年後、子供を竹籠(しおけ)に入れシオケ峠越えをして、飯塚の大分(だいぶ)神社や椿神社や綱分神社に立寄った。そして大分県の宇佐神宮へ向かった。
神功皇后の生れは滋賀県だという。彼の地にも、多くの伝説があるに違いないと思う。
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