第27話 神功皇后の福岡 川崎町田原の正八幡宮

文字数 727文字

川崎町田原には豪族がいたという。神功皇后が三韓征伐へいく折、熊鷲征伐で兵力を損耗した。
新たな人材が必要となり、筑前町の大己貴神社で、祈祷師したところ、地方の豪族が参加し結集してくれた。その中に川崎町の田原麻呂という人物が、家来を伴い従軍した。韓国を征伐し、帰国後、宇美町やショウケ越えそして大分神社で、恩賞を貰い、郷士は夫々解散したが、尚、田原麻呂は皇后を慕い付いて来た。位登神社までついて来て、正八幡へ戻り、この地で皇后との従軍の素晴らしい体験談を広めたという。皇后の伝承は、このよう従軍した郷士が故郷へ戻り、彼らなりの、見聞き体験したことが、残っているのではないだろうか。今や、正八幡宮の神主は途絶え、代理神主が遠方より、偶に来る。地域の人も、過去の話を引き継ぐ人は少ない。この町は炭鉱で栄えた過去があり、全国から多くの炭鉱労働者が定住し、大昔の文化や伝承が消滅してしまっている。貴重な、皇后と川崎町とのつながりの話は、川崎町教育委員会の係長から教えていただいた。川崎町を含め、田川市近辺の行政機関で共同して、地方活性化のための、郷土史を、今年度の秋に発行するという。分厚い本の中の一部、神功皇后の足跡という項を、説明してもらった。古墳時代から、卑弥呼と神功皇后との関係など、奥深く多くの書籍を読破され研究されているようだ。皇后の北部福岡での足跡は、ほぼ、私が八幡宮を見た経路と同じような神社を書かれいた。生立神社を経て、宇佐神宮へは寄らずに、行橋方面から、沿岸沿いに、都へ帰られたのではと推論されていた。正八幡へは皇后は寄らなかっただろうが、位登八幡宮の後、皇后の経路は赤村の大祖神社を経由し、生立神社の方に行ったようだ。道のりに合理性がある

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