第21話 神功皇后の福岡 羽白熊鷲の塚は郷土の英雄を讃え賛辞

文字数 1,293文字

あまき水と文化村周辺が、戦場になった。場所がなかなか特定できなかった。文化村の近くで、大きな家に聞いた。若い娘さんが出て来られ、こちらの説明を聞き、地図を見てくれた。「大昔のことで、よく分から射ない」と言われた。近くに、人は見当たらない。先の道を曲がると、と倉庫で作業されている中年の男性が居られた。話を聴くと「この後ろの山が障子が岳です」という「皇后があの山の頂から弓矢を放ち、下に居た白熊鷲を射抜いた」と、曾祖父よりその伝説は、何回も聞いた。「水の文化村は無料で見学できる。この一帯は桑畑だったが、30年前、水の文化村となった」。美奈宜湖も作られ綺麗な水の村として世界に発信されている。「熊襲はこの近辺の山賊であり、住民から財物を巻き上げていた悪いやつだった」という。地元の人が言うのだから、農民から物を巻き上げていたのだろう。一面大和政府に反抗し税を治めず、住民にとり良い面もあったのだろう。神宮皇后軍が攻めてきて、圧倒的従軍と、射手引隊の加勢により、皇后も苦しみながらも、山賊軍を撃滅させた。羽白熊鷲の小さなな石の塚が、桑畑にあった。水の文化村を建設するとき時、あまりにも地元の英雄の墓にしては、小さすぎると文化村の敷地芝生へ塚を移転した、直径4mで高さ3m位の三角円錐の塚が盛り上げられ、説明板が設置されている。寺内ダム管理所の説明で「水のせせらぎを身近に感じてもらう日本一の階段です。マイナスイオン一杯の水のカーテン部分は、カナダのナイアガラの滝にヒントを得て設計されました。焚きくぐりを体験できます」と、あった。あいにくと休業で、水は上から流されていなくて
水しぶきを体験できなかった。羽白熊鷲の碑には「仲哀天皇時代、木免(きつ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり、其の長は羽白熊鷲という、荷持田(のとりた)に盤踞し、権力遥かに想像を絶する。神功皇后、新羅征討の途次、香椎宮に出陣中なりしがかかる形勢を関知し、先ず内患を絶つことの急務なるを悟り、従駕の臣、武内宿祢等と審議の末、巨魁・羽白熊鷲を征伐することに決した仲哀天皇九年三月、香椎宮を経て、松峡宮(まつおみや)に至り、激戦死闘の結果、終に層増岐野(そそぎの)に於いて、強敵羽白熊鷲の軍勢を殲滅、このとき、聡明且つ沈着な神功皇后は、左右を顧みる「収得熊鷲我心則安」とのたまう。羽白熊鷲の派遣の強大さここに歴然たり。我が郷土に一世を風靡せし人物を知らずいま彷彿として羽白熊鷲の雄姿脳裏に去来す永遠不滅の羽白の顕彰碑を建立」と郷土の英雄を讃える賛辞が書いてある。上秋月の愛宕神社前付近の「椿の森」で決戦が行われ、敗れた羽白熊鷲は今の寺内ダム付近に後退し、羽白熊鷲軍は矢野竹に陣取り、皇軍は西の小高い山・喰那尾山(くいなをやま・栗尾山)山頂に陣を置き、寺内ダム湖付近の荷原(いないばる)で最後の戦闘が行なわれていた。決戦が行われた愛宕神社前付近の「椿の森」が層増岐野(そそきの)である、と現地では言われている。羽白熊鷲は戦死後、その墓は寺内ダムの付属施設「あまぎ水の文化村」の「せせらぎ館」前右に新たに造られてる。
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