第38話 神功皇后の福岡 嘉麻乳房の杜から田川伊登神社

文字数 1,418文字

来たついでに、嘉麻警察の近くの大隈の方に行った。この地も皇后が子の応神天皇に水を飲ませ、乳も飲ませ「乳房の杜」と呼ばれる場所がある。ここは秋月街道の宿場だった。「マルシェ」という安政の頃から呉服屋を営んでいた家の娘さんが、跡を継ぎ、喫茶兼和服店をされている。寄って、神功皇后の話を若主人に聴いた。歴史が好きで、店に神功皇后物語の本が置いてある。「ユーチューブで神功皇后の事が沢山ある」と紹介された。詳しく、深く、皇后の事を、画像や文章でアップしている有名人がいらっしゃる。後で見て、その知識と考証には圧倒された。とても太刀打ちできない。しかし、私は、自分の道を行こうと決めた。
国道三二二号線を上ると、香春町(かわらまち)を通り、田川市位登(いと)にある位登神社に着く。入口掲示板に「古い踊りが無形文化財になっている」とあった。鳥居を過ぎ階段を上がると社には大きな注連縄が飾ってある。由緒書きはない。下のお宅に尋ねると、神主は飯塚の曩祖八幡宮の神主をされてそちらに勤められ、夜こちらの自宅に帰られる、氏子の私たちは日常の掃除を抜かりなくやっているという。「下の長屋門のある家の方が詳しくご存知です」と教えてくれた。
神主の親類で長屋門のある家の毛利さんにお会いした。由緒はないが、家から古文書の写しを持って来て見せてくれた。「この神社に皇后は子供と寄った」という記載がある。私が訪ねた時は、夏の暑い日だったが、奥さんも話に加わり、大昔の物語をしてもらった。「裏にある高倉山を越えて、稲築の方から来られたのだろう」と話された。毛利さんが「伊田駅前に皇后の御腰掛けの石がある。そちらに何かの謂れがある」と勧めてくれた。
位登神社の近くに正八幡宮があり、その地の豪族が皇后軍に従軍したと嚢祖八幡でも聞いていた。正八幡宮は川崎町田原にある。川崎町に田原麻呂という豪族がいた。神功皇后が三韓征伐へいく折、熊鷲征伐で兵力を損耗した。新たな人材が必要となり、近在の豪族が呼ばれた。その中に田原麻呂という人物が、家来を伴い従軍した。
三韓征伐し、帰国後、宇美町やショウケ越えそして大分神社で、恩賞を貰い、郷士は夫々解散した。尚、田原麻呂は皇后を慕い付いて来た。位登神社までついて来て、正八幡へ戻り、この地で、皇后との従軍の素晴らしい体験談を広めたという。
皇后の伝承は、このよう従軍した郷士が故郷へ戻り、彼らなりの、見聞き体験したことが、残っているのではないだろうか。今や、正八幡宮の神主は途絶え、代理神主が遠方より、偶に来る。地域の人も、過去の話を引き継ぐ人は少ない。この町は炭鉱で栄えた過去があり、全国から多くの炭鉱労働者が定住し、大昔の文化や伝承が消滅してしまっている。
貴重な、皇后と川崎町とのつながりの話は、川崎町教育委員会の係長から教えていただいた。川崎町を含め、田川市近辺の行政機関で共同して、地方活性化のための、郷土史を、今年度の秋に発刊するという。分厚い本の中の一部、神功皇后の足跡という項を、説明してもらった。古墳時代から、卑弥呼と神功皇后との関係など、奥深く多くの書籍を読破され研究されている方のようだ。
皇后の北部福岡での足跡は、ほぼ、私が八幡宮を見た経路と同じような神社を書かれていた。生立神社を経て、宇佐神宮へは寄らずに、行橋方面から、海岸沿いに、都へ帰られたのではと推論されていた。正八幡へは皇后は寄らず、次の楓治神社に向かったようだ。
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