19話 実験(前編)

文字数 3,549文字

男が顔を出した地面は、まるで水面のように波紋を作り出していた。
波立った土は、男が完全にこちらに姿を現すと一瞬で元の硬さに戻る。

現れたのは、橙色の髪をした、あまりやる気のなさそうな顔の男だった。
すらりと背の高い、けれど猫背で姿勢の悪いその男が、面倒そうに辺りを見回す。
しばし耳を澄ました後「入れ違ったか」と小さく呟くと、気怠げな仕草で、また地面へと姿を消した。

土から一切の揺らぎが消えて、シンと森が静まった途端、リルがプハーーーッと息を吐いた。

「息を止めていたのですか」
久居が、慌ててリルの口元を覆っていた手を離す。
「う、うん……つい……」
(ギュッと押さえられてたわけじゃないから、声を出さないようにって意味だったのは分かったんだけど、緊張しちゃって、つい……)
リルが、心の中で言い訳をしながら、息を整える。
あまりの緊張に、息をするどころじゃなかったようだ。

「すみません……」
久居が謝る。
「大丈夫大丈夫、久居のせいじゃないよ!」
と、リルは慌てて首を振った。

久居は、ずっと地面を強く押さえていた右手の指先を、紙が消えた場所から離す。
指先に残っていた淡い光がフワッと霧散した。

リルはこの術を以前にも何回か見たことがあった。
クザンと修行をしていた頃に。
確か、城の隠密から教えてもらったという気配を消す術を、久居がさらに改良した物……だったはずだ。
(ボク達みたいに耳が良い種族にも、音が伝わりにくくなるようになるとか、そんな感じの……)
思い出しながら、リルは先ほど男が消えていった地面を見る。

今は音も遠ざかり、何も聞こえなくなってしまったその地面を、足でトントン叩いてみる。
こんなところから出てくるなんて、不思議だとしか思えない。

リルが振り返ると、久居は、リルのせいで焦げたらしい掌や顔の周りを治していた。
「久居……熱かった?」
「いいえ、ちっとも」
リルの視線に顔を上げた久居が、優しく微笑む。
(焦げちゃったんだから、熱くないはず無いんだけどな……)
と、リルは思いながらも、仕方なく苦笑を返した。
「リルは、地下への移動を見るのは初めてですか?」
さらりと問われて、リルが思わず答える。
「うん、鬼以外には見せたらダメなんだって、ボクは、その、正式な鬼じゃないから……見たことなくて……」
クザンはよく地下へ行き来しているようだったが、リルや久居の前で出入りする事は一度もなかった。
「あっ、ていうか、鬼が地下に潜るのって内緒なんだった!」
リルが慌てて両手で口を押さえる。
「やはりそうなのですね。クザン様もその件について口にしないので、聞いてはいけないものと思っていました」
納得するように頷く久居。
(それなのに、ボクに聞くのはなんでなのさ……)
リルは、半眼で久居の顔を見ながらも、自分のうっかりさを情けなく思う。
「うー……」と呻く悔しげなリルに、久居は胡散臭いほどに整った笑顔を作ると、美しく微笑み返した。

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それにしても。と久居は思う。
(先ほどは何とかやり過ごせましたが、次また炎を使うと、気付かれるということでしょうか……)
顎に指を添え考え込む様子の久居を、リルは声をかけずに見上げている。
(けれど、相手が鬼ならば尚のこと、リルにも自身の炎で身を守れるようになってほしいですね)
久居が僅かに視線を下ろすと、久居を見上げるリルと視線が合った。
「……リルには、気配消しの術内で炎の練習をしていただいても良いですか?」
久居の言葉に、リルは薄茶色の瞳を瞬かせると「うん」と頷いて答えた。

念のために場所を少し変えてから、久居は周囲に杭を打つ。
指で押さえていた簡易的な術ではなく、今度は杭でしっかり紙片を打ち込み、広めに、かつ念入りに、気配消しの術で結界を張るつもりのようだ。
「準備ができました」
久居が術を無事完成させてリルを振り返ると、リルは結界の中央で、指先を見つめたまま、困ったような緊張したような表情をしていた。
その指先からは、つい先ほど、天を焦がすような火柱が立ち上った。
またあんな風に出てくるのではないか。
もし、自分では抑え切れない程に、炎が溢れてしまったら……。
そう思うと、リルは中々思い切れずにいた。
「……どうしました?」
久居に問われて、リルが顔を上げる。
薄茶色の瞳が、縋るように久居を見つめた。
「あの、ね……。手を繋いでも、いい?」

炎を出すのが怖いのか、半ベソで訴えてくる小さな少年の懇願に、久居は思わず言葉を詰まらせる。
リルと手を繋いでいたら、リルの炎が出た時、久居の手は溶けてしまうだろう。
「あっ……そうだよね。ごめん、なんでもない!」
リルが慌てて目を伏せる。
久居は、ほんの一瞬の躊躇いで傷つけてしまったであろう少年の、小さな手を取った。
「かまいませんよ」
と答えて、久居はまだ少し柔らかさを残した少年の手を、しっかり握る。
(たとえ障壁で炎が防げずとも、肘までの負傷でしたら、今日一日休めば明日には動けるようになることでしょう)
久居は心の内で覚悟を決めながら、柔らかく微笑む。
(菰野様のためにも、焦りは禁物です。確実に。勝率を上げてゆかなくては……)

「だっ、ダメだよ、久居が焦げちゃうもん!」
慌てて振り解こうとするリルの手を、久居はしっかり掴んで離さない。
「焦げても治せます」
落ち着いた声で静かに答えられて、リルの大きな薄茶色の瞳が揺れる。
互いに、焦げる程度で済むとは思っていなかったが、久居が既に覚悟を決めている事は、リルにも分かった。
「服は、リリー様から耐火の加護をいただいていますから、大丈夫ですよ」
久居は片目を閉じると、悪戯っぽく微笑む。
思わぬウインクに、リルも肩の力が抜けたのか、ふふっと小さく笑った。

「……じゃあ、危なくなったら離してね。最初だけ、ちょっとだけ。握っててくれたら嬉しい……」
そう言って、儚げに笑う少年の手が震えていることに、久居は手の力を抜いてようやく気付いた。
それと同時に、そんな少年が自分を素直に頼って、甘えてくれる事を、久居はとても有り難いと感じていた。

リルは、ほんの少し目を閉じて、呼吸を整える。
それからゆっくり瞼を開いて、指先に集中し始めた。
小さな耳がぴょこんと飛び出すが、本人は気付いていないようなので久居は黙している。
熱を感じたら即座に離れようと身構えていた久居だが、彼が熱を感じる事はなかった。

ポッと小さな音を立ててリルの指先に微かに火が灯る。

薄水色の美しい輝きに一瞬二人が見惚れて、次の瞬間、揃って繋いだままの手を見た。
「あれ?」
「熱くない……ですね」
顔を見合わせる二人。思ってもいなかった展開に、久居も驚いた様子だ。
「よかったー」と呟いて、リルがパッと手を離した途端、久居が障壁を展開しながら跳び離れた。
リルに背を向けた久居の、指先と思わしきところから黒い煙が上がり、嫌な臭いが立ち込める。
「久居!! 大丈夫!?」
「大、丈夫……です。……っ、少し、待って、下さい」
久居の返事に、駆け寄ろうとしていたリルは足を止めて、静かに炎を引っ込める。

久居は決して声を上げなかったが、リルには、必死に耐える久居の荒い息がどうしても聞こえてしまう。
リルは、その痛みを想像すると涙が滲んだ。
(……でも、痛い目に遭わせたのはボクだ。久居が見せないようにしてくれてるのに、ボクが泣いてちゃダメなんだ……)
少年は、少し考えてから、指を一本立てると炎を出す練習をもう一度始めようとする。
それが『今自分がやるべき事』で、『久居が一番嬉しい事』だとリルは思った。
(ごめんね久居……ごめんね……)
じわり。と滲みそうになる涙を、グッと力を込めて堪える。
(ボク頑張るからねっ)

リルはもう一度、父に言われた言葉を思い起こす。
三人で修行をしていた頃、いつまでも術が使えるようにならないリルに、クザンは言った。
『いいか、リル。久居は強い』
『うんっ』
『けどな、それは「人間にしては強い」って事だぞ?』
『うん?』
『俺や、お前みたいな化け物が出てきてみろ。あいつじゃ太刀打ちできなくなる』
『ボク化け物じゃないよー?』
首を傾げるリルの頭を、クザンが撫でながら言う。
『その時のために、お前はちゃんと修行しないといけないんだぞ? 分かってんのか?』
『うんっ。ボク頑張るよっ』

(……そう、約束した。ボクが頑張るって)
炎から逃げてばかりじゃ、いつまで経っても久居の助けにはなれない。
今度の敵も、人じゃないなら……。
リルの眼裏に、あの日の傷だらけの久居の姿が過ぎる。

(だから、怖いけど…………っ、怖いけど! もう、ボクはボクの炎から逃げない!!)
リルは、小刻みに震えてしまう右手を、左手でギュッと押さえる。
(小さな小さな……、小さな火でいい。ボクにもどうか、久居やクリスやフリーを、守れるだけの力を……!)
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登場人物紹介

リル (リール・アドゥール (reel・adul))  [鬼と妖精のハーフ]


フリーの双子の弟

17歳 6月25日生まれ 身長150cm 体重はかなり軽い

頭のてっぺんにちっちゃなツノ有り

種族の関係上、見た目は10~11歳程度


よく食べてよく寝る、小柄な少年。

外見はひょろっとしているが鬼由来の腕力は人の比ではない。

潜在能力は物凄いものの、まったく制御が出来ない(汗)

逆に言えば、今後一番成長していける子。

久居 (ひさい)


苗字は記憶と共に喪失

21歳 5月生まれ(日は不明)身長170cm 体重は思ったより軽い

髪型のせいか態度からか、老けて見られる事が多い

8歳の冬、海辺に打ち上げられていたところを、菰野とその母に拾われて以降、菰野の傍を片時も離れず菰野の面倒をみながら育つ。

拾われる以前の記憶には部分的に抜けがある。

自分の存在意義を菰野に見出しており、菰野の為なら惜しみなく命も手放す。


過去のトラウマから、首元に触れられると意識を失う体質のため、真夏でも首元に布を巻いている。

幼少時から常に丁寧語で話す癖があり、咄嗟のときも、心の声も全て丁寧語。

クザン(玖斬 閻王)[鬼]

作中ではほとんどカタカナ表記


リルとフリーの父親。外見年齢は38歳。実年齢は76歳。

鬼の中でも特に長命。


獄界より、リルを獄界に連れて行かないことを条件に、

年間300以上の特に面倒な魂送の仕事を押し付けられている。

年中あちこち飛び回っていて超多忙。


駆け落ちしてまで一緒になった妻と共に居られる時間が無さすぎる事や、

子ども達の成長を見守れない事が現状すこぶる不満。

リリー・アドゥール (lily・adul) {妖精}


リルとフリーの母親。37歳。


妖精の村を隠す為、山にぐるりと張られた結界の管理者。

彼女にしか出来ない仕事というのが多く、案外多忙。

結界を扱うその能力は群を抜いている。


村長の娘ではあるが、妖精以外の種族との子を産んでしまったため、村から離れた結界ギリギリの場所に、ポツンと家を建てて家族3人で暮らしている。

子供達の安全の為、夫とは別居しているものの、夫婦仲はすこぶる良好。

空竜(くうりゅう)[自然竜]


リルやカロッサにはくーちゃんと呼ばれている、もふもふの自然竜。

大気を取り込み体の大きさを自由に変えることが出来る、持久力に優れた竜。

大きくなるのにそこそこ時間はかかる。

最大サイズでの最高時速は650km程度。


空竜というのは個人名ではなく、ただの種族名。

カロッサ [妖精]


時の魔術師に拾われてからようやく人らしい生活を知った、元孤児。34歳。


リリーとは同じ師の元で学んだ姉妹弟子。

リリーが初めての年の違い友達で、唯一の親友。


一時期クザンやラスが時の魔術師の家に転がり込んでいたことがある。

時の魔術師に多大な恩を感じており、一生をかけて返したいと思っている。

クリス(偽名?)


四環守護者の生き残り。17歳。

『風』と『雲』の腕輪を扱う事ができる。


村を焼き親兄弟を焼いたラスを恨んでいる。

牛乳(ぎゅうにゅう)[猫]


白い毛並みに青い瞳の猫。

クリスを守っている。……と本猫は思っている。

クリスを恋人のように大事に思っているが、クリスは気付いていない。

名前はクリスが付けた。

ヘンゼル


ラスに利用されている現地の貴族の青年。でもあまり役に立ってない。

本人としては、ラスの方を利用しているつもり。

ラス(ラスカル)[鬼]


四環を狙っている鬼。外見は永遠に14歳。

どうやらカロッサ達と面識があるらしい。

レイ(レイザーランドフェルト=ハイネ・カイン=シュリンクス)[天使]


身長180cm 体重73kg(内、翼10kg)+鎧3kg(アルミ程度の重さの素材)=総重量76kg

空を飛べるように骨は中空構造となっており、人間よりは骨折しやすい。外見年齢22歳。


時の魔術師の警護を担当している天使兵。

カロッサがヨロリと二人きりになった頃から警護担当となり、

毎日姿を見ているうちに、いつの間にかカロッサに惚れていた(初恋)

すぐ赤くなったり青くなったりする事を、自分でも気にしている。


仲間からはレイザーラ、リル達からはレイと呼ばれる。

特技は光魔法。わりと技能派。

色々と有能なのに、いつも不憫。

サンドラン(サンドラングシュッテン)


レイの学生時代からの友達。

緑色の髪にオレンジの瞳。

無邪気で悪戯っぽく笑う、仲間思いの青年。

サラ(サーラリアモン)[天使?]


黒い羽を持つ少女。外見年齢18歳。

父さんのためなら何でもできる。

逆に、父さんの関わらないことは全てどうでもいい。

カエン(火焔)[鬼]


外見年齢は25歳で時間停止中。実年齢は86歳。


クザンより年上の、クザンの甥っ子。

クザンが生まれるまで、閻王の名は自分が継ぐものと思っていた。

(レッコク)烈黒[鬼]


外見年齢27歳ほどの鬼。作中に名前は出てこない。

カエンに仕える鬼のうち、筋骨隆々と背の高い方の、背の高い方。


頭の左右から2本ずつ生えていたツノのうち、左側の2本はヒバナに折られている。

ヒバナ(火端)[鬼]

作中では『変態』と呼ばれることの方が多い。

外見年齢は25歳で時間停止中。実年齢は204歳。


クザンの母に仕えていた従者。

主人の死後、そのままクザンに仕えている。

フリー・アドゥール(free・adul) [妖精と鬼のハーフ]


リルの双子の姉。

14歳 6月25日生まれ 身長155cm 体重は普通 歳のわりに胸がある

背中にトンボのような羽と、頭に触角有


現在菰野と共に凍結中。

菰野 渡会 (こもの わたらい)


地方の藩主の姉の息子。久居の主人。

15歳 10月10日生まれ 身長160cm 体重は見た目より重い 童顔


現在フリーと共に凍結中。

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