5-4 巡礼へ

文字数 2,341文字

「……」
 目覚める直前のこと。夢うつつの狭間で、俺はここが我が家だと一瞬だけ思った。
 こういう勘違いは数度ある。林間学校の二段ベッドや、修学旅行のホテルの布団。故郷や家という場所から遠く離れた寝床で故郷を思うのは、別に不思議なことではない。そして、本来は悲しいことでもなかった。
 ここはフラクシア。二つの大陸に挟まれ、大海原によって隔絶された孤島の街。セントラルの中心街から外れた宿屋の一角で、朝の定刻を知らせる鐘の音で起きた俺は、やるべきことをやるために上体を起こし、寝床から出た。柔らかく包んでくれた寝具は抜け出す時、妙に重く感じられた。

「おはよう、ナミノ。よく眠れたかい?」
 俺が起きた時、三人はもう準備をしていた。朝に弱いハヤンさんも既に支度を整えている。俺だけ寝坊してしまったようだ。
「すみません、今すぐ支度を――」
「大丈夫、まだ焦らなくていいよ。時間はまだある」
「みんな、やることがあるのさ。だから眠りが浅くなるのもしょうがない」
 なあ、ハヤン、とヒグルマさんが彼女に声をかけると、ハヤンさんは少し戸惑った後頷いた。オルドさんとヒグルマさんはこれから巡礼だ。だが、ハヤンさんにも予定があるというのは初耳だった。
「ハヤンさんは、この後重要な予定があるんですか?」
 俺がそう尋ねると、ハヤンさんは「ええ」と首肯して、
「ここより南、湾岸にある地区に用があるんです」
 と教えてくれた。それ以上は何も聞けなかった。

 寝台から降り、しばらくして旅の準備を済ませると、俺たちはあの癖の強い男に別れを告げる。
「おはよう御四方。そこの少年。昨日はゆっくり眠れたかな?」
「え、ええ。それはもうぐっすりと」
「それは良かった。うちの布団はセントラルじゃここでしか味わえない、極上の代物だからね。誰でも一度眠れば、春の夜のような夢心地さ」
 男はウィンクをして、ホテルのセールスポイントを自慢する。確かに、儚い幻覚を夢想する程にはよく眠れた。
「ところで君たちは、この後どこへ行くんだい?」
「みなさんは、巡礼に行かれるそうですよ。私は別行動ですが」
 ハヤンさんが言葉を返すと、男は少し考える素振りをして、俺たちに告げた。
「そうか、巡礼か。おお、よく見れば確かに、君の胸元には<八紘の御門>の徽章があるね。鳥居と太陽を上手く融合させた、見事な意匠だ」
 男が御門の徽章を褒めると、オルドさんは我がことのように誇らしげにして、それに手をかざした。
「道中、気をつけていきなよ。巡礼の期間は街が一番賑わう時期だが、こういう時に熱狂的な連中が湧くものだからね」
「僕もそれは承知しています。ただ、祭りの空気に溺れる信者のことは心配ですが、こういう雰囲気は嫌いではないですよ」
「そうか。そうだよなあ、遠い海の向こうの大陸からここまで来たのだから、この熱気に包まれたい気持ちも分かるよ。『今』しか味わえないセントラルの空気を、よく味わうといい」
 男はオルドさんの気持ちを尊重しながら、門扉を開いて俺たちを外へ案内した。別れの挨拶をすると、彼はまた胸に手をかざすポーズをして俺たちを見送った。

 宿屋の男はセントラルの理想的な市民だった。商売とはいえ、どんな人間にも丁重かつ気さくに振る舞う様子は、尊敬に値する。
 だが、現実は非情だ。彼が別れ際に言ってくれたセントラルの熱狂は、俺たちの周りには訪れてくれなかった。竜人を連れた巡礼者の集まりに、人々は侮蔑の眼差しを込めて距離を取った。
 大通りを歩く途中、ヒグルマさんの方から雑談を始めることが何度かあったが、あれは通りを歩く人間の視線に、当事者以上の怒りが湧き上がる俺たち二人の気を静めようとしたんだと思う。それくらい、セントラルの住民には腹が立っていたんだ。
 幸い、街人は聖地に近づくごとに少なくなり、大通りの終点、聖地の起点である十字路に着いた頃には、人は疎らになっていた。聖地への入口に聳えているのは、真っ黒な色をした鳥居だった。俺はその鳥居が現実のある場所のそれに似ているような気がして、複雑な感情が湧いた。
 鳥居の向こうには長い橋が湾上に架かっていて、その向こうの島に、見上げるほど大きな櫻樹(プロテア)が聳え立っていた。幹から枝先まで桜色に煌めいて、島の地底を突き破った巨大な珊瑚のようにも見える。一目見れば確かに、幻想的で壮大な美しさを感じる。

「ここから先は、信者以外は立ち入りができない。僕一人で言ってくるよ」
 言いながら、オルドさんは櫻樹に視線を向けた。その目は輝いている。崇暁教の聖地に念願叶って辿り着けたのだから、その気持ちは理解できる。
「巡礼って、具体的には何をするんだ?」
 ヒグルマさんが首を傾げながら、オルドさんに質問した。ちょうど俺も、どういう手順か詳しく聞きたかったところだ。
「聖域に入り、櫻樹の麓でお参りをするんだよ。教えによれば、まず橋向こうの手洗い場で手を水で濯ぎ、それから十七段の階段を上った先にある祭壇の前で、二礼・一拍手・合掌・一礼をする。それだけさ」
 その説明を聞いて、俺は少し寒気がした。異界の文化がこういう形で伝わってしまっているのか。
「へえ、意外と簡潔なんだな」
 ヒグルマさんは感心して、向いにある島とプロテアを眺めた。櫻の名を冠された聖樹の下で、崇暁教の信者たちはお参りをする。その参拝手順が異界の新しく整備されたやり方という点で、妙なズレを感じた。
「じゃあ、行ってくるよ。ヒグルマたちはこれからどうする?」
「あそこの展望台で待ってるよ。事が済んだらそっちに来てくれ」
 オルドさんは頷くと、片手を振って俺たちにしばしの別れを告げる。聖地へと続く橋を渡る彼の背中は、聖域に吸い込まれるかのように段々と小さくなっていった。
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