7 黎明
文字数 1,133文字
セントラル展望台、『青眼の信徒の碑』より一部抜粋
……その青年にとって、この一夜は全てを喪った夜だった。
両膝を折り曲げ、わなわなと震える青の瞳が見据えた先は、威光なき神像。<我が君>に殉じる覚悟で訪れ、一度はその荘厳さに我が身を震わせた。その櫻樹はもはや輝きを失い、ただ溶けるように崩れていった。
「オルド! 櫻樹の破片が落ちる、ここから離れるぞ!」
彼の付き人である竜人が、彼を死なすまいと手を取り、崩れた橋の袂に浮かぶ小舟へと無理やり乗せた。手を掴まれた時、聖域を離れた時、小舟に乗った時、その全ての瞬間で、彼は抑えきれない悔恨を心の中で叫んだ。声を漏らさないよう、必死に歯を食いしばりながら。
桜樹を覆った、紅く冷たい嵐が止み、荒波が静けさを取り戻す頃。青眼の信徒は小舟に揺られながら、それでも崩れ落ちていく櫻樹を片時も見逃そうとはしなかった。こうしている間にも、繭は溶けていく。やがて大樹の幹すら崩れた。『そこ』には何もないのだと、まるで自身が呆気なく語るように、樹幹はバラバラに崩落した。
ようやく青年は全てを受け入れ、瞼を閉じた。<我が君>はもう、いなくなった。これで現世に留まる理由もない。櫂を漕ぐ竜人をよそに、青眼の信徒は再び瞼を開き、懐から取り出した短刀の鞘に手をかけた。
「おい……見ろよ!」
竜人の声と共に、視界は突如明るくなった。薄紅色の光。見ると、崩れ果てた大樹の残骸から、あの時の輝きと同じ――いや、それ以上の神々しい光が天へと立ち上っていた。
信徒は短刀を小舟の床板に捨て、すっくと立ち上がりその威光を凝視した。
あれは、竜だ。<我が君>――シュージャン・ウーの顕現。桜色の光の粒子が、長虫のような姿を形作り、荒天を消し去った夜空の果てへと飛んでいる。まるで元いた場所に帰っていくかのように。或いは、高天の果てを裂き、新たな吉凶を招くように。
夜が明ける。世を覆う絶望のような夜が。そして空が白んでいく。その時彼の頬に一雫、何かが降り落ちた。それは涙ではなかった。<我が君>が招いたのは夜明け――そして雨。桜色の雨だ。長虫を模ったは天に昇るや否や、大気にその身を委ね、自らの欠片を慈雨に溶け込ませたのだ。
やがて、敬虔な信徒は悟った。その悟りはひどくあたたかき歓びだった。嵐のような歓びはやがて、静かに滞る水面のような、ただ穏やかな微笑みに変わった。青の瞳に忌みが失われ、精神が『停滞』をもって完成した瞬間だった。
――間違いない。あのワタリビトは『本物』だったんだ。
無窮は受け継がれる。<我が君>はその身をもって、我々に託したのだ。神の僕、仔竜からの受難を越えて、我々は変革する。停滞に至る変革をもって、崇暁教は真の無窮となるのだと!
……その青年にとって、この一夜は全てを喪った夜だった。
両膝を折り曲げ、わなわなと震える青の瞳が見据えた先は、威光なき神像。<我が君>に殉じる覚悟で訪れ、一度はその荘厳さに我が身を震わせた。その櫻樹はもはや輝きを失い、ただ溶けるように崩れていった。
「オルド! 櫻樹の破片が落ちる、ここから離れるぞ!」
彼の付き人である竜人が、彼を死なすまいと手を取り、崩れた橋の袂に浮かぶ小舟へと無理やり乗せた。手を掴まれた時、聖域を離れた時、小舟に乗った時、その全ての瞬間で、彼は抑えきれない悔恨を心の中で叫んだ。声を漏らさないよう、必死に歯を食いしばりながら。
桜樹を覆った、紅く冷たい嵐が止み、荒波が静けさを取り戻す頃。青眼の信徒は小舟に揺られながら、それでも崩れ落ちていく櫻樹を片時も見逃そうとはしなかった。こうしている間にも、繭は溶けていく。やがて大樹の幹すら崩れた。『そこ』には何もないのだと、まるで自身が呆気なく語るように、樹幹はバラバラに崩落した。
ようやく青年は全てを受け入れ、瞼を閉じた。<我が君>はもう、いなくなった。これで現世に留まる理由もない。櫂を漕ぐ竜人をよそに、青眼の信徒は再び瞼を開き、懐から取り出した短刀の鞘に手をかけた。
「おい……見ろよ!」
竜人の声と共に、視界は突如明るくなった。薄紅色の光。見ると、崩れ果てた大樹の残骸から、あの時の輝きと同じ――いや、それ以上の神々しい光が天へと立ち上っていた。
信徒は短刀を小舟の床板に捨て、すっくと立ち上がりその威光を凝視した。
あれは、竜だ。<我が君>――シュージャン・ウーの顕現。桜色の光の粒子が、長虫のような姿を形作り、荒天を消し去った夜空の果てへと飛んでいる。まるで元いた場所に帰っていくかのように。或いは、高天の果てを裂き、新たな吉凶を招くように。
夜が明ける。世を覆う絶望のような夜が。そして空が白んでいく。その時彼の頬に一雫、何かが降り落ちた。それは涙ではなかった。<我が君>が招いたのは夜明け――そして雨。桜色の雨だ。長虫を模ったは天に昇るや否や、大気にその身を委ね、自らの欠片を慈雨に溶け込ませたのだ。
やがて、敬虔な信徒は悟った。その悟りはひどくあたたかき歓びだった。嵐のような歓びはやがて、静かに滞る水面のような、ただ穏やかな微笑みに変わった。青の瞳に忌みが失われ、精神が『停滞』をもって完成した瞬間だった。
――間違いない。あのワタリビトは『本物』だったんだ。
無窮は受け継がれる。<我が君>はその身をもって、我々に託したのだ。神の僕、仔竜からの受難を越えて、我々は変革する。停滞に至る変革をもって、崇暁教は真の無窮となるのだと!