5-10 nasty

文字数 2,052文字

 ――ピチャリ、ピチャリと音がする。
 扉を抜けた先は、真っ暗な地下洞窟だった。天井から垂れる、淡く琥珀色に光る鍾乳石。毛細血管のようにもつれ、脈動を続けるブレスの配管。それ以外は普通の地下洞窟だが――先程の無機質な回廊と違って、ここはいやに有機的だ。真っ暗闇にオレンジの光が灯る空間は、転移に気づいた時の最初の部屋を思い出す。
 そして何より、ピチャリ、ピチャリと音がする。
 水音は大きい。そして先程聞こえた怪物の叫声が、四方八方からこだまする。
「ここは……一体なんなんです?」
 恐る恐る尋ねると、カノヱは前を向いたまま答えた。
「……『卵工場』だ。『公然の秘密』と言われていたが、本当にあったんだな」
「卵……そういえば、通りで誰かが卵を運んでいました」
「そうか。その卵を『作る』場所は、ここで間違いないだろう。地下にあるブレスの生成工場、それが卵工場だからな。にしても、この水音と呻き声……何が起こっているのか、今は想像しない方が良い」
 カノヱに制止された途端、俺は体の奥底から凄まじい、吐き気にも似た嫌悪に襲われた。たまらず口を塞いだが、耳に入り込むピチャリ、ピチャリという音と、本能の底が抜けたような獣の叫び声が脳を支配する。
「ナミノ、走れるか? ここから先はただ前を向いて駆けるんだ。壁の向こうにあるものを、絶対に見てはいけない」
 そうだ。視界にさえ映らなければ、きっと大丈夫なはずだ。俺たちは暗闇にぽうっと浮かぶまっすぐな道を、ひたすら走り抜けた。分かれ道から別の部屋の光が漏れているのが時折見えるが、それでも俺は前を見続けた。そう、見えなければいいのだ。見えなければ――
 視界は先を行くカノヱと、その先にある暗闇を捉えていた。しかし、聴覚は俺をせせら笑うように、この暗闇から生まれる全ての音を捕らえていた。ピチャリ、ピチャリという水音は、次第に粘膜か何かが擦れるような粘着質な音に変わっていった。竜人たちの嬌声も、砂嵐のようにけたたましく轟いている。そこには生々しい下世話さなど一切ない。ただただ絶望に喘ぐ悲鳴だった。
 先の見えない暗闇の道を行く。どこまで行っても音は聞こえてくる。まるで迫り来るかのように、粘ついた音と獣の悲鳴と、腹の底に響くような地を踏む音――
 その音を聞いて、じりじりと削られていた俺の正気に、楔を打ち込むような恐怖が刻みつけられた。誰かが近づいている。この足音はきっと竜人だ。俺たちは気づかれた!

「前を向け、ナミノ! 走るんだ!」
 俺を焚き付けるように、あるいは自分に言い聞かせるように、カノヱが叫ぶ。気取られた以上、彼にも声を抑えるほどの理性はないようだった。そして彼の欠落した理性では、目の前まで迫る障害物の存在にも気づくことができなかった。
「うわっ!」
 前を走っていたカノヱが、暗闇の中で突然何かにぶつかった。衝撃の反動で、彼は俺の後方まで吹っ飛んだ。
「どうしたんです?」
「き、急に壁が……暗闇でよく見えなかったな」
 確かにこの通路はとても暗い。度々見える分かれ道から、かすかなオレンジの光と粘着質な騒音が漏れるだけだ。ただその漏れた光が視界の暗順応を遮り、どこまでも続く暗闇として映る。
「こうしちゃいられないが、別の道を探すしか……ん?」
 その時、カノヱが何かに気づいた。そして僅かに震えが増した声で、彼は俺に尋ねた。
「なあ、この壁からやけに冷たい気配を感じないか? まるで氷の壁のような――」
 カノヱが言い終わる前に、彼の痛みを滲ませる声が聞こえた。同時に俺にも、その冷気が感じられた。
「カノヱ! 大丈夫ですか⁉︎」
 暗闇から辛うじてカノヱの人影が見える。膝を崩し腕を手で抑える姿は、どこか怪我をしているようだった。
「なるほどな……引っかかったよ。ナミノ!」
 カノヱは何かを察していた。俺もその『冷気』で、彼と同じ考えがよぎった。
この氷の『色』は分からないが、それでも確信している。奴はすぐ側にいる。
 俺とカノヱの背後にある分かれ道から、明々とした琥珀色の光が壁に反射した。通路に現れたその光源は、ブレスを運ぶ管から漏れる光よりも数段明るく、目が眩むほどだった。

「……鼠か」
 俺たちを追い詰めたその男は、ぽつりと呟いた。低く落ち着いた、しかしわずかにあどけなさを感じる声。その手には、ブレスの光源と思しき提灯が握られている。
「……!」
 カノヱが息を詰まらせた。彼の周囲には、紅く煌めく氷の茨が壁に床に絡みつき、彼の動きを封じている。その紅い氷は、俺の足元にも距離を詰めてきた。
「やはり来たか……グルリベル!」
 氷は触れずとも相当な冷たさだった。カノヱがその冷気に気力を奪われながらも、何とか絞り出した声で男の名を呼ぶ。絶望的な状況の中、次第に俺の意識も薄れてくる。
「安心しろ。今ここでお前たちを死なせはしない……」
 囁くような声で、提灯を持った男は俺たちの命の主導権を握る。フラクシアを賭けた聖域への突入作戦は、その男に――グルリベルの手に握られることとなった。
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