6-7 蘇生

文字数 2,717文字

 何も見えない。何も聞こえない。五感全てが、何の情報も伝達できてない。そういう虚無の中にいる。
 落下はいつの間にか止まっていた。浮いているのか、沈んでいるのかさえ分からなかった。ただただ虚無に等しい暗闇を漂い、俺は自らの行末を待っていた。
 ここがプロテアの中枢。<シュージャン・ウー>――竜神ウルの繭の中枢。まるでその夢の中にいるようだ。竜神は眠っているのか。この夢に、終わりはあるのだろうか。

「…………」
 真っ黒な無が広がる空間で、その時俺は一筋の光のような、小さな声を鼓膜で感じ取った。
「……ワタリビト……」
 ワタリビトに繰り返し呼びかけるその声は、次第に大きく、はっきりと聞こえるようになった。俺もその声に応えるように、問いかける。
「あなたは……」
 そこで初めて、その存在は姿を現した。暗闇にぽつりぽつりと、光の点が灯る。星々の点在する宇宙のような空間、その中心に、薄紅色の光の粒子が徐々に集まり、うっすらと姿を形作っていく。

 光の姿は、翼を下ろした竜の姿。しかし神と呼べるほどの威容はなく、仔竜と呼べるほどに小さい。それでも、俺の背丈と同じくらいはある体長だった。
「ウル……私の名は、ウル。かつてはそう呼ばれていました」
 ウルと名乗ったその存在は、まるで自分の記憶を手繰り寄せるように自らの名を告げた。その声はか細く震え、あまりにも衰えていた。
「ウル……あなたが、上古の神様なんですね」
 俺がそう確認すると、ウルは力なく俯いた。
「私はもはや、かつての力を持っていません。竜神戦争を終えた後、私の体は深く傷ついていました。それでも荒れ果てた世界を復興させようと、残っていた力を振り絞り、私はこの世界と貴方の世界を繋げたのです。この世界はワタリビトの力もあり、瓦礫の上に新たな命が芽吹きました。そうして育っていく世界を見守りながら、私は傷を癒すため繭を作り、眠りにつきました」
「でも、それを侵す存在が現れてしまった」
「……<崇暁教>。かつて私の名の下に興り、栄え、そして亡びたもの。今あるそれは、ただ名を騙るだけの偽りに過ぎません。人々は私の力を奪い、繭を融かし、禁忌となっていたはずの転移を再び行いました。世界に恵みをもたらすためではなく、世界を恣にするという我欲のために。そして、この世界に『偽り』が齎された」
 今の崇暁教は、転移の禁忌を解いたフラクシアの人々が招いたということか。そして、そのワタリビトが崇暁教を乗っ取り、転移を利用して世界に災いをもたらそうとしている。
「私はもう、この世界にかつて存在していた私ではない。ウルではなく、シュージャン・ウーという虚妄に囚われたのです」
 竜神は首を上げ、俺を見つめるような姿勢を取る。そして、再び言葉を紡いだ。

「ワタリビト。私に残された時間は幾許もありません。神として皆を導き続けること能わず、囚われとなって人々を惑わし続けるその私に、どうか最期の『贖罪』をさせてください」
 竜神は畳んでいた翼を広げ、願いを聞き届けるために俺の言葉を待っていた。
「それなら……俺を故郷に帰らせてください」
 一度言葉を切った後、万感の思いで俺はそう願った。一人の旅人としてはもちろん、フラクシアのために――俺なんかがそう思うのは傲慢かもしれないけど、ついに見過ごすことはできなかった。
「わかりました。今ある全ての力を解き放ち、貴方を『故郷』へと導きましょう」
 竜神はそう言って背後へ振り返ると、両の翼を翻した。すると俺の足元から、光の道が出現した。
「貴方の内に有する『情報』を頼りに、元の世界への道筋を示しました。道筋は脆く、貴方が辿った後に忽ち消えてしまいます。決して振り返ることなく、前だけを見てこの道を進んでください。貴方が元の世界へ帰った後、この繭も崩れ、私は消えてしまうでしょう。骸すら遺すことができずに」
 俺に訴えるように語りかける竜神の光は、徐々にその輝きを失いつつあった。時間がない。俺は進まなきゃならない。
「貴方がこの道を進むかどうか……それは貴方自身に委ねます。さようなら、ワタリビト。そして、この世界よ……」

 竜神の姿をしていた光の粒子は離れ離れになり、声も徐々に聞こえなくなる。周囲の星々も一つ一つ消えていった。この光の橋も、足を止めたままでは消えてしまうのだろう。
 意を決して、俺は進むことにした。振り返ってはならない。竜神ウルはそう告げた。だが、こうして前へ前へ進んでいく中で、旅の思い出は頭の中で巻き戻ってしまう。
 最初は怖く思えたヒグルマさんは、最後まで頼もしく勇敢な人だった。かつての竜人にとっての聖地であり、今は『呪い』となっているプロテアが崩れた時、彼はどんな顔をするだろうか。
 ハヤンさんは最後まで悠々とした人だったが、彼女の冒険心と風の魔法には幾度も救われた。あの宿場で出会っていなかったら、この旅は終わらせることはできなかっただろう。
 カノヱとの出会いは最悪な状況から始まったが、崇暁教に拐かされなかった彼こそ真のドワーフだろう。外向的な彼は、今後色んな人の手を借りて森人集落を立て直していくに違いない。
 ノワレは飄々として掴みどころのない人だったが、彼女の意志は揺るぎなかった。プロテアが崩れた後、ノワレはどうするのだろう。あれがなくなったからと言って、まだ崇暁教が完全に消えるわけではない。
 崇暁教――オルドさんは、崩れ落ちるプロテアの姿に何を思うのだろうか。聖地へ赴いたオルドさんの顔は、とても晴れやかだった。敬虔な彼にとって、心の拠り所が消えてしまうこと。それは察するに余りある苦痛なのだろう。

 旅路を振り返り、しかし背後は振り向くことなく光の道筋を駆け抜ける。もう会うことはない。訪れることもない。たった一度の、俺だけしか知らない旅路。きっと誰にも語り継がないだろうけど、俺は決して忘れない。俺たちの世界の外側に、全く異なる世界があったことを。そして、俺たちの世界や歴史が、その世界を追い詰めていたことを。
 どこまで歩いただろうか。一瞬だけそう思っては、後ろを見てはいけないと思い出す。それを繰り返しているうちに、目の前に光が差し込んだ。あの先にあるのが、俺の故郷なのだろうか。そう思うとラストスパートをかけたくなり、俺は光に向かって走り出す。

 近づく度に眩くなっていく。その果てに足を踏み入れた時、消えていた声が再び聞こえてきた。

「……そうでした。私の繭が消えても、そこからは新たな命が芽吹きます。万物は絶えず流転し、無と有を繰り返す。
 ――ここはフラクシア。『無窮』のかなわぬ場所。ただ『変わり続ける』ことのみが、『永遠』と成り得る場所」
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