6-1 幕が上がる

文字数 2,853文字

「目覚めたか、ワタリビト」
 ゆっくりと意識を取り戻すと、白髪に赤目の青年がこちらを睨んでいた。俺は睨み返して、こいつには魂を売らないという覚悟を示す。崇暁教なんかの思うままになるものか。
「そう警戒するな。審判の時までは猶予がある。諦観はゆっくりと醸成されるべきだ」
 白髪赤目の青年――グルリベルは、特異な言い回しで俺の心を折ろうとしてきた。隣には、まだ眠っているカノヱがいる。
 グルリベルは手をかざし、指先から鉤爪のように氷を生成した。紅の原石を研磨したように輝く冷たい刃の先端から、血の真珠のような雫が一つ滴る。
「俺の氷には土の魔法、『腐毒』の力も込められている。水と土、二つの魔法を持っているんだ。これは<我が君>に与えられた『天賦』。この天賦のおかげで、俺はお前たちを生かしたままここへ連れてこられた」
 上を見るといい、とグルリベルは続け、背後にある大きな存在を見あげる。グルリベルの向こうには、天を衝くばかりに伸びる巨大な櫻色の結晶体――櫻樹(プロテア)があった。ここは聖域の中央、祭壇の真ん中。足元の床には巨大な崇暁教のシンボル、『八紘の御門』が刻まれている。祭壇の先には広い石段と、その向こうに厳かに構える門が閉ざされていた。あの石段こそ十七段の階だろう。
「くっ……」
 隣にいるカノヱが目覚め、おもむろに起き上がろうとする。彼はグルリベルの方を睨んで、吐き出すように問いかけた。
「あの地下にある『卵工場』……あれは、本当にあったんだな」
 グルリベルは振り向かず、燕が地を掠めるような低い声で答えた。
「卵工場はセントラルの維持を担う施設だ。大量の竜人が海底直下の工場に集められ、雌雄一対が交わり卵を産み続ける。或いは雄どもが『擬牝台』に操を繋ぎ、ひたすらに精を搾られ続ける。卵であれ精であれ、それから得られる竜髄(ブレス)は紛うことなき万物の動力源だ。街の明かりが灯り、竈は常に熱を帯びる。あるいは水の魔力と融合して変質し、食糧を冷凍保存するための氷になる。芳醇なブレスは大地にも恵みをもたらすだろう。この都市機構はいずれ、全世界の模範となるはずだ」
「だからといって、人を蔑ろにして街を維持する必要があるのか⁉︎ これが文明の成れの果てだって言うのかよ!」
 カノヱの訴えるような嘆きが琴線に触れたのか、グルリベルの顔がわずかにこちらを向く。
「竜人は人間ではない。種族革命の歴史において、先人は確かにそう告げた」
「竜人が崇暁教の祖であってもか?」
「彼らは大罪を犯した。同じ<我が君>を戴く者であれ、彼奴らは『異端』でもある。我々が興した新たなる崇暁教は、同じ過ちを繰り返しはしない」
 グルリベルは言い終えた後、俺の目の前に氷を仕掛けた。カノヱには周囲に氷の棘を巡らせた。
「ついてこい。来なかったら分かるな?」
 どうやら俺一人で来い、という意味らしい。現状を受け入れた俺だが、カノヱを置いてはいけないという心が体を縛りつけた。それでも無理矢理振り切って立ち上がり、グルリベルの元へ向かう。
 グルリベルは自らに歩み寄る俺の姿に頷くと、視線をプロテアに戻して歩き出した。

「貴様がワタリビトであることは承知している。貴様以外のワタリビトが最後に現れたのは八一年前。古来からの崇暁教が勃興して二六〇〇年の節目だ」
 十七段の階を上りながら、グルリベルは過去の転移を語った。時を刻むように、彼の足音が規則的に鳴り響く。
 階段を上り終えた時、グルリベルは足を止めた。そして俺に突然、こんな質問をする。
「時にワタリビト。異界には幾つの国がある?」
 正直答えたくはなかった。だが、拒めば何をされるか分からない。俺は事実を述べることにした。
「……一九六ヶ国、ですね」
 返答を聞いたグルリベルは関心を向けるように俺の顔を見た。赤い目はその色彩に反し、どこまでも冷徹だった。
「一九六ヶ国――単純に受け取るなら、貴様はそれだけ貴様自身の世界を知っていることになる。貴様には『異界の情報』が多分にある」
 異界の情報。何が言いたいのだろう。『転移』において重要な要素なのだろうか。
 グルリベルは俺に向き直り、プロテアを背にして言葉を続ける。

「貴様は異界から来た純血のワタリビトだな。なればその脳も、『遺伝子』とやらも、全て異界のものを記憶してきたということだ。この櫻樹は<我が君>の繭。その中枢に貴様を送り込むことで、フラクシアと異界に『結び目』を作る。
 先の発言から、貴様は異界の情報を遍く吸収しているようだ。膨大な情報は、それだけ<我が君>の異界との交信に役立つことになる。更に今回の転移は、<我が君>の核たる櫻樹で行われるもの。フラクシアと異界、全てを巻き込み、この世界に無数の結び目が作られる」
 グルリベルは大樹を仰ぐように両腕を掲げ、その壮大な計画を口にする。俺はごくりと唾を飲み込んだ。俺の命一つが、これほどまでに世界に影響を及ぼすとは。どんな地獄でも償いきれない量の業を背負ってしまう気がする。
「ワタリビト。貴様の命は、まさしく崇暁教にとっての宝だ。世界を破滅させる『引鉄』たるワタリビト、その抹殺は大衆から見れば紛れもない大義だ」
 グルリベルは両腕を下ろし、俺を冷血の眼差しで貫いた。レーザーサイトのように、標的を無機に捉える双眸。その下で噤んでいた口の端が上り、彼はほくそ笑む。
「だが、崇暁教にとってはその大義など不要――何故ならば、貴様の命はこれから奇跡の種になる。新たなる時代を開く鍵となるのだから!」

 演劇の幕が上がるように高揚した彼の口調、それが頂点に達すると同時に彼は片手を振りかざし、俺の腕を掴んだ。そして、高揚の頂点を飛び越えるように、祭壇の頂上から跳躍し、大気を凍らせて空中を滑走した。
 彼の不意打ちに動揺したまま、俺は祭壇から離れていく視界を見下ろし、すぐに大樹の頂を見上げた。このままでは、樹冠の虚まで連れて行かれてしまう!
「焦るなワタリビト。祝福の時を待つといい。俺たちは新たな無窮を見届ける最初の二人になる」
 ――そんなことはさせない。
 その言葉で俺の反抗心に火がついた。この魂を、崇暁教への生贄にされてなるものか! 俺は外套の中にある丸薬の袋を手探りで見つけ、赤い丸薬をもぎ取った。残り一つの丸薬がある袋が落ちてしまったが、今は先のことなんて考えてられない。
薬を丸呑みするや、俺は一気に滾った。そいつは燃え上がる反抗心に焚べられる薪だったんだ。身体中に力が湧いてくる。これで彼の手を振り切れば!
「くっ、こいつ……!」
 グルリベルは焦燥の色を浮かべ、俺の腕を掴む手に冷気を宿らせてくる。だが凍りつく前に勢いよく腕を滑らせ、雄叫びと共に彼の手を振り抜いた。
(よし、抜け出せた! 後は――)
 --この落下を何とかしなければならない。
 グルリベルの拘束から脱せたのは樹冠の近く。ここから目測で百メートルちかくも落ちるとなると、落下の衝撃は計り知れない。ここで終わりになるかもしれないが、それで世界が救えるならまだ――
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