5-8 背中合わせに歩き出す

文字数 1,670文字

 作戦開始の時刻はもうすぐだ。黒い詰襟、その上に八重桜を飾った外套を身に纏い、その下には森人集落の先生から貰った丸薬と、もしもに備えてカノヱから授かった短刀を備える。必要最低限の装備だが、隠密行動するにはこれが最善と言える。
 既にカノヱは船着場で待っているだろう。騒がしいオカツカ地区を離れ、俺は帰郷への覚悟を踏み出す。

「ナミノ……ナミノ!」
 同時に、聞き覚えのある声が俺の背後からした。振り返ってみると、意外な人物がそこにいた。
「オルドさん?」
 見ると、オカツカ地区から抜け出したはずのオルドさんが、息を切らしてこちらにやってきた。
「オカツカから離れたんじゃなかったんですか?」
「そうしようとしたけど、止められた。崇暁教の信者である以上、僕をおいそれと逃すわけにはいかなかったんだ」
 そう言ってオルドさんは、胸元の御門の徽章を指し示した。それもそうだ。今ここで抜け出せば、オルドさんは間違いなく崇暁教のスパイだと疑われるだろう。
「それは気の毒でしたね」
「ああ。でも、君に別れの挨拶をするのは許してもらえた」
 そう言って、オルドは俺の横を歩いた。オカツカの通路の出口を抜けて、港に入る。埠頭は狭く、地区外を隔てる高い壁のおかげでどこにも逃げられない造りになっている。日もすっかり暮れた暗い海辺に延びる、細長い埠頭の片隅に俺たちは座った。

「もうすぐ……お別れだね」
 オルドさんは港の向こうにある大樹を見つめながら言った。ここからでも目視できる大きさのプロテアは、宵闇の残光を吸い寄せるように、未だ桜色に輝いている。
「お別れ、ですか」
 俺はそこで言葉を切った後、ほんの少しだけ彼に意地の悪い言葉をかけたくなった。
「オルドさんは、俺がちゃんと帰れるのを確信してるってことっすよね」
 からかうように言ってみると、オルドさんは少し俯いた。水面を見つめたまま、「そうだね」と小さく返す。それから、大きくため息をついて空を見上げた。
「はあ、ワタリビトってもっと素直で、敬虔な人かと思ってたよ。少なくとも昔のワタリビトはそうだった。君子の危機なら我が身すら捧げられるって」
「『忠君』、ってやつですか?」
「ああ。その通り」
 オルドさんは笑みを浮かべてそう答えたが、俺と過去のワタリビトを比較されるのは少し歯痒い思いがした。俺には、そんな『立派』な感情はない。
「ナミノは決して<我が君>になびかない。あの朝に君に問いかけて、その返答を聞いた時、薄々感じていた。それから、どんどん前に進む君の姿を見て、確信に変わっていった」
 オルドさんの声は、空元気が抜けるようにどんどん弱くなっていった。空からプロテアに視点を移していた瞳が、今度は俺の方へ向けられる。彼は真剣な表情になっていた。

「最後だから、一応言っておくけど……本当に、この方法で帰るのかい」
 オルドさんの眼差しは、俺に覚悟を問うていた。そこにはほんのわずかに、切実な思いも含まれていた。
「はい。俺はこのプロテアに入って、故郷へと帰ります。みんなのため――フラクシアのために」
 俺はそう言い切った。しばらくの沈黙の後、オルドさんの瞳が憂いと呆れを帯びた。
「……そうか」
 一言だけ呟き、彼はまた水面を見ていた。
 ……そろそろ時間だ。俺は腰を上げ、立ち上がる。その時、ちょうどオルドさんも同じタイミングで立ち上がった。お互いの信念は全く違うのに、こういう時だけ一緒になる。俺たちは小さく笑った。気恥ずかしさを取り繕うように。
 そして、俺たち二人は別々の方を向いて歩き出す。
「ねえ」
 俺が立ち去ろうとする手前で、オルドさんが声をかけた。振り返ると、彼はこう言った。

「君との旅、悪くなかったよ。帰郷の無事を祈っている」
 俺の安全を願いながら、彼は手を額に当てて敬礼した。俺は無言でゆっくり頷き、その場を去った。
 彼の言葉の真意は分からない。オルドさんは俺と同じくらいの歳に見えるけど、誰よりもわがままで、正直な人だった。でもあの別れの挨拶は、素直な感謝でありながら、まるで強がりを見せるように素直じゃなかったんだ。
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