5-9 竜獄島

文字数 1,728文字

 セントラルより南、『月雫の湾』と呼ばれるラナ湾の細長い水路を、一隻の船が通っていた。

 ラナ湾は、ハート型をしたセントラル島の南端を二つに裂く細長い入江で、湾の北端にプロテアを戴く聖域の島があり、そのすぐ南にあるのが竜獄島である。カノヱ曰く、そこは竜人にとっての牢獄たる島ゆえに名付けられたそうだ。竜神の眠る地のすぐ側で、眷属の竜人が囚われているとは何という皮肉だろうか。
「よし、着いた」
 小船は竜獄島の片隅に接岸された。カノヱと俺は物陰に隠れながら、見張りたちの目をやり過ごす。想像より見張りの数が少ないのは、恐らく市街の動乱に兵士たちが駆り出されたからだろう。
 潜入を続ける中で、竜獄島の建物を通り過ぎていく。あれらの建物は、殆どがフラクシアの万物の根源物質、ブレスを貯蔵する倉庫なのだという。そのブレスは海底や地下を通って、フラクシアの絢爛を支えているのだと、カノヱが船を漕ぎながら教えてくれた。
「だけど勘違いしないでくれよ。セントラルの絢爛豪華は全て、巡礼者のためにある。仲見世で商売してる町人も皆信者さ。そうじゃない人々は全て、市街の端で慎ましく暮らしている」
「つまりオカツカ地区は、教団に反抗する人々が集まる場所なんですね」
「そういうことだ。オカツカ地区は特に貧しい者が多く、治安も悪い。でもだからこそ、彼らはセントラルを陰から見張る権利がある。あいつらは同じ泥水を啜りながら、飼い主の手を噛む機会を待ってるのさ」
 その牙を剥く機会が、ちょうど今夜というわけだ。
 真っ暗闇の竜髄蔵を夜風のようにすり抜けて、俺たちは建物の片隅にある地下への出入口に着く。それは下水道に繋がるマンホールに近しいものだった。静かに蓋を開けて、まず俺が梯子を降りる。そしてカノヱが蓋を閉じ、夜闇よりも暗い地下の縦穴を降りていく。

 梯子を降り切った先は、鼻腔を突くような匂いがした。下水道を兼ねた地下通路だが、通路の両隣には琥珀色に光る大きな配管が通っている。琥珀の光は時々脈動するように明滅しながら、聖域や市街の方へと流れている。
「これは……ブレスを運ぶためのもののようだな」
カノヱはそう独りごちた。
通路をまっすぐ進むと、やがて分かれ道に来た。カノヱの言う通りに右に曲がり、その先にある扉まで来た。扉の周辺は、ブレスを運ぶ管がやけに密集していた。カノヱが静かに扉を開ける。
扉の内部は、琥珀色の光の奔流が透明な壁や天井、床下を駆け巡っていた。超自然的な風景に、俺は精神世界の中枢にでもいるような錯覚がした。
「ブレスの大きな流れ……この通路一体が巨大な管になっているかのようだ」
 カノヱは壁を手で触れながら、無機質な空間にそう呟いた。彼は肝が据わっている。こんな空間に長時間いたら、俺は精神がおかしくなってしまいそうだ。
「早く出ましょう。ここにいると落ち着かない」
「ああ。俺もだ」
 正直な心境を吐露すると、カノヱも頷いて俺を手招きした。汗一つ浮かべないほどに涼しい顔をしているカノヱだが、初めて見る景色に内心動揺しているのかもしれない。だが、それを全く顔に出さないのは頼もしいことだった。

「……待て。この扉の先から変な音がする」
 回廊をしばらく進み、新たに現れた扉の前でカノヱが足を止めた。耳を澄ますと、確かに妙な音が聞こえる。水の飛び散るような音が、規則的なリズムで反響しているようだった。
「……」
 ここに来て、カノヱの様子に逡巡の色が見られた。扉を開こうとする手が、かろうじて分かるくらいに震えている。彼が抱いているのは、無機質な空間に対する不安よりも、この先に待ち受ける光景への予感に対して恐れているようだった。
「この先に……何かあるんですか?」
 カノヱの首がわずかに動く。頷こうとしたが、硬直した体が言うことを聞かないようだ。
「ああ。ここはきっと――」
 彼が何か言おうとした瞬間、扉の向こうから怪物の叫声のような大きな音がした。
「……やはりな」
 カノヱは何か確信したようだ。俺にはまだそれが分からないが、その緊張が俺にも伝わってくる。
「……もう後戻りはできん。行くぞ」
 それでも、カノヱは恐怖に引き下がろうとはしなかった。俺もその覚悟に従い、彼が開けた扉を抜けた。
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