3-5 もう一人のワタリビト

文字数 2,438文字

 屋敷の玄関を抜け、中央の廊下を通り抜けて最奥の部屋へ入る。狭い部屋には、棚に無数の書物と竹簡が並び、学者か文豪の居室のような厳かな空気が満ちている。
 そこは俺にとってどこか懐かしさを覚える空間で、異界への転移というよりは、俺たちの世界の過去にタイムスリップしたかのようだ。隣にいるオルドさんは冷や汗をかきながらも、何とか平静を取り繕っている。見慣れないものばかりに囲まれて、心が落ち着かないのだろう。

 カノヱが三つ座布団を敷いて、俺たちを誘導する。三人並んで座布団の上に座り――俺とカノヱが正座しているのを見て、胡座をかこうとしたオルドさんが姿勢を直した――<先生>の前に佇む。
 燭台の灯りでうっすらと分かる先生の人影は、畳につくほどの長い白髪をしていた。体格は里にいたエルフより少し小さいが、ドワーフよりは明らかに大きい。袖口の先には、まだ筋肉の残るしなやかな腕がかろうじて見えている。その右腕の先には筆が握られているのか、つらつらと文をしたためる音が聞こえる。

 やがて筆の動きは止まり、硯の上にそれは置かれた。長髪の男はこちらの方に顔を傾けると、小さく咳払いをしてこちらへ向き直った。
「ほう」
 こちらを向いて早々、瞼をわずかに見開く老人と目が合う。深く皺の刻まれた顔ながら弛んでも痩せぎすでもない、覇気を感じさせる容貌だ。白雲のような長髪と相まって、まるで百戦錬磨の剣豪のような趣さえ感じられる。虎狼のように鋭い眼光とは裏腹に、口角はわずかに吊り上がっているのは、強者の余裕とワタリビトに対する期待の思いが込められているようだった。総じて、不気味さもおどろおどろしさも感じさせない、純粋な凄みが彼に漂っていた。
「お待たせしました、先生。彼が例のワタリビトです」
「そうか。旅人、よくここへ参られた」
 <先生>は深々と頭を下げ、居住まいを正した。俺たちもお辞儀をして、自らの名を教える。
「ナミノと申します」
「僕はオルドです」
 名前を聞いて、先生は小さく頷き、俺たちを見つめた。銀狼の長を思わせる眼光。一瞥されるだけで穴が空いてしまいそうなほどの視線がこちらに向けられ、ワタリビトである俺を品定めしている。
 少しして、先生は俺の胸元辺りに目を下ろした。瞼がわずかに見開いて指を差す。
「ナミノ、と言ったな。その外套を外してはくれまいか」
「は、はい」
 俺はどきりとした。外套の下に着た学生服。これは俺自身がワタリビトである何よりの証拠だ。それを今目の前に晒すというのは、正直気が引ける。
 少し臆病な心持ちになりながら、俺は外套を脱いだ。真っ黒の詰襟に金色のボタンが並んだ上着を見て、先生は目を丸くして嘆息した。

「これは……間違いない、『私の世界』の服だ」
「えっ……?」
 それってつまり、先生の正体は――
「『私の世界』って……じゃあ、貴方も俺と同じ、ワタリビトなんですか?」
 思わず口に出た疑問に、先生は我に返ったように鋭い目つきをした。だが、『仲間』を見つけたことへの安堵からか、わずかに表情が和らいでいる。
「いかにも。私も君と同じ、ワタリビトだ」
「『先生』という名は、ワタリビトの世界のことを熟知しているからそう呼ばれているんだ」
 先生はそう告白し、ついでにカノヱが彼の尊称の由来を補足した。カノヱもまた俺の服をつぶさに見て、不思議そうに呟いた。
「それにしてもこの服、どこかで見たような……」
「そうか。カノヱ、その服は<聖域>で見たことはなかったか? 二年前、私がお前たち使者を連れ、そこで本部学徒への教導について助言を行った時のことだ」
「ああ、思い出しましたよ。聖地の子供達はこのような服装をしていました」
「そうだ。そこのオルドなる者とは服装が違うようだったな」
 話題に出されたオルドさんが、自分自身の服装を確認する素振りを取った。
「其方の服装はいかにも<此岸>の者らしい。ゆとりのない白い衣服の形と、肩にかけてある長布の色と紋章で分かる。だがその『八紘の御門』、それはいかにも崇暁教の目印だ」
「本部学徒の服は、かつての転移者が来ていた服装を基にしているからな。ただ、彼の服にあるボタンとは色が違う。本部学徒のボタンは白地に赤、教団の『聖なる配色』だ」
 カノヱの一連の解説を聞いた後、先生は真剣な顔をした。
「白地に赤……ナミノ、この色に覚えはないかね?」

 その質問を聞いて思いつくものと言えば、話の流れから察するに俺の故郷のことだろう。俺は自分の予想の通りに返答した。
「そう……私達の『国』の色」
 こちらに覚悟を促すかのように、先生はより険しい表情と声色で話した。オルドさんがごくりと生唾を飲み込む。俺もまだ心の準備ができていない。
「私はナミノと同じ世界、同じ国で生まれた。君はまだ成人してはいないだろうが、私の齢は百を超えていると思っていてくれていい。長命種であるエルフの医学を得て、私は奇跡的に今もこの地に立っている」
「百年前……」
 俺たちの世界の百年前と言えば、だいたい大正時代の頃になる。そこの頃に先生は生まれたという。その先に待ち受けるのは、震災や悪法、そして戦争といった混沌の事態に巻き込まれていく時代だ。
「先生、貴方が生きていた時代というのは、恐らく戦争の――」
 俺がそう尋ねると、質問が終わるのを待たずして先生は左手を掲げた。指の一部が欠けている。
「君ならこれで、概ね察せるだろう」
 世紀を跨いでなお残っている、生々しい戦傷の痕だ。
「ナミノ、この傷はどこで受けたと思う」
 掲げた腕を今一度つぶさに眺めながら、先生は俺に尋ね返す。過去の記憶を思い出したのだろうか、先生の顔にまた一つ深い皺が刻まれる。
 俺は学校で習ったことを思い出しながら質問に答えた。それを聞いた先生は無言で、しかし口元を緩めてかぶりを振った。
「普通はそう答えるだろうな」
 そう言われて、俺に一つの答えが思い浮かんだ。
「まさか……フラクシア?」
 今度は頷いた先生が、再び厳しい表情で話を続けた。
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