4-1 旅に後退はない

文字数 2,939文字

 森を揺るがしたあの事件の後、俺たちの口数は少なくなった。
 聖地へ向かう。目的地は同じだけど、その理由は全く違っていた。オルドさんは自らの洗礼のために、聖地へ巡礼に向かっている。だが、俺がそこへ向かう理由は、彼を育んだ神性を否定するためだ。
 森を発つ直前、俺はオルドさんにこう言われたのを覚えている。
「ナミノ、君の『異界に帰る』という目的を否定はしない。だけど、これだけは覚えておいてくれ。聖地へ向かう以上、君は必ず<我が君>の御前に立つ。<我が君>の御名<シュージャン・ウー>は、君たちの世界の神から授けられた名前だ。我らが神の御名に傷をつけることは、フラクシアと君たちの異界、その両方を敵に回すと思っていた方がいい」
 それは半ば脅迫じみた忠告だった。馬鹿にはできない。俺たちの故郷の人々は、みな崇暁教の元となった宗教のゆるやかな信者だ。いつかは罰が当たるのだろう。

 峠を越えて山道を降りると、待ち受けるのは濃緑の樹海だった。鬱蒼として陰湿、所々の地面はぬかるみ、小さな沼が転々としている。何よりも蒸し暑い。荷物や食材をダメにしないよう、なるべく早く樹海を抜ける必要があった。幸い、沼沢地帯は一日半で踏破することができた。
 その次に待ち受けるのは、高い岩壁に挟まれた峡谷だった。沼地の湖へ流れる川を遡って、長虫のように曲がりくねった山道を進む。樹海の高温多湿とは違った意味で、厳しい旅路だった。

 日が落ちかけた頃、谷底に架かる吊り橋が見えてきた。その辺りは岩壁の幅が広くなり、小休憩が行えそうな広場になっている。その片隅に、崖沿いの枯れ木にもたれかかる人影を見た。
「こんなところで休んでる旅人って、いるんですか?」
 純粋な疑問をヒグルマさんに尋ねてみると、彼はすぐに首を横に振った。
「余程の熟練者でもない限り、橋の近くなんて危険な場所で休憩はしないな。普通なら橋みたいな土地の境界は、賊や兵士が通行代をせしめてる場所だ」
 そこで一旦言葉を切り、ヒグルマさんは顎に手を当てて少し考え込んだ。そして言葉を続ける。
「ただ、ここはセントラルだからな。そもそも孤島という立地が関所代わりなんだろう。加えて、あんな森人が峠で見張ってる山を越える旅人もそう多くはないさ」
 じゃああれは旅人ではないのだろうか。俺たちは人影の方まで寄り、その正体を確認する。
「こいつは……あの時の」
 ヒグルマさんの声色にわずかな驚きが宿った。
 もたれかかる人影の正体は、森人集落を脱出する手前で襲撃してきたエルフだった。彼の胸には、赤く透明な結晶が深々と突き刺さっていた。その結晶の先端から、血液を薄めたような色の雫がポタポタと落ちている。
 ヒグルマさんはその赤々とした凶器に違和感を覚え、そっと手を伸ばして触れてみた。
「……えらく冷たいな。極低温の氷か」
「赤いってことは……血で作った氷ってことかい? ……あっ」
 オルドさんが氷とは別の何かに気づき、間も無く決まり悪そうな顔をしてそれを見つめていた。やがてハヤンさんも気がついて、指をそちらに向けた。
「待ってください。この遺体の紋章、崇暁教の印では?」
 ハヤンさんの指差す方向を見ると、遺体の胸元には『八紘の御門』が彫られた首飾りが提げられていた。後ろにいるオルドさんが仰天の声を上げたので、振り返ると彼の顔は青ざめていた。
「そんな、まさか……」
「ここは総本山、いわばお膝元です。組織の足元には影が付き物でしょう」
「ナミノを襲う連中は、崇暁教の手下ってわけか……となれば、この氷はオレたちへの見せしめってわけだな」
「僕たちを襲うなんて、信じられない。僕たち信者は皆、<我が君>の意思を継ぐ御子同士のはずだ……」
 狼狽するオルドさんの言葉が気になるが、ヒグルマさんは一足先に橋の方へ向かっていた。典型的な木製の吊り橋は、彼の巨体を揺れながら支えている。
「意外と頑丈だな。さあ、渡るぞ。立ち止まってる余裕なんてないからな」

 ヒグルマさんに言われるがまま、俺たちも彼の後に続く。竜人の巨体に、さらにオムノとワタリビト、計四人の体重がのし掛かると、吊り橋は弾むようにたわんだ。こんなに不安定な橋を渡るなんて、人生で初めてのことだ、ぐらぐらと震える足元は、今の気持ちの具現化と言っても差し支えない。
 何とか吊り橋を渡り切り、その先の道を俺たちは進んでいった。吊り橋の次は桟道だ。岩壁に沿うように作られた木道の隣には、目が眩むような谷底の景色が見える。間違って落ちてしまえば、ひとたまりもないだろう。
 その桟道を渡り終えたところで、俺たちは大きな滝を目にした。膨大な水量が音を立てて、あの谷底の滝壺へ流れ落ちていく。それは確かに絶景といえる景色だったが、俺がそう言おうとした瞬間、目を疑うような奇景に出くわした。
 滝の激流に混じって落ちているもの――薄紅色の流氷が、花びらが落ちるように流れ落ちている。

「ねえちょっと! あの流氷、さっきの死体と関係があるんじゃ?」
 俺の周りの大人たちもその異常に気付き、怪しさに首を傾げた。
「威嚇行動にしちゃあ洒落てるな。仮に相手が氷を生み出す魔人なら、わざわざ川を遡って氷を落としてることになる」
「私たちを見張っている……ということなのでしょうか」
 冷静に分析する二人に対し、オルドさんは落ち着かない様子で考え込んでいた。自分の命が狙われていることへの動揺だろうか。そう思っていると、彼と目が合ってしまった。そして彼は、秘密の話があるかのように俺に手招きする。
「何かあるんすか? オルドさん」
 小声で彼に尋ねると、オルドさんはこちらの耳元まで屈んで話をした。
「あの紅色の氷の正体、知ってるんだ。名前はグルリベル、此岸大陸にもその名が届く崇暁教の<開拓者>。此岸とは真向かいにある<彼岸大陸>で、教団の伝道を後押しした立役者だ」
「伝道を後押し……ってことは、武名で名を馳せたってことっすか?」
「そうとも言える。彼は開拓者たちにとっての英雄だ。強さで言うなら、あの<覇泥戦争の魔人>にも引けをとらない。オムノの魔人は決まって若い少年少女で、グルリベルもその一人だが、彼の強さは他の魔人とは比較にならない」
「はでい……戦争?」
「分からなくてもいい、とにかく今、僕たちはとんでもない人に見張られているってわけだ。教団に属する僕ならともかく、ワタリビトの君が見つかったらどうなるか分からないぞ」
 覇泥戦争というのが何なのか分からないが、彼の切羽詰まった言動から、色々とまずいことになっていることは想像がつく。
「でも、どうしてそれをわざわざ俺だけに……?」
「そんなの、君がワタリビトだからに決まってるじゃないか。騒ぎが大きくなる前に、何としても逃げて欲しいんだよ」
「……今更っすよ。俺はやるべきことが決まっていますから」

 ワタリビトとして帰郷し、崇暁教と故郷の因縁を断つことは、少なくとも俺が宿した使命だ。未練を残したままこの世界にいたくはない。
 その後、俺たち二人はヒグルマさんに呼び止められ、何の話をしていたかを聞かれた。俺とオルドさんは、「ワタリビトであるナミノが捕まったらまずい」ということを話していた、とごまかし、その場をやり過ごした。
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