4-2 忌色

文字数 1,750文字

 峡谷に入って二日後。その昼下がりに、俺たちは奇妙な景色に遭遇した。

 荒々しい岩肌が目立つ谷の真ん中に、茶碗のように清水を湛えた湖が見えたんだ。その日は晴天で遠くの景色がよく見え、橋の奥にある翠緑色の群島と、そのうち一つの島にそびえ立つ奇岩が見えた。奇岩の上にはさらに家が立ち、煙突を伸ばしている。きっとあそこが、森の入り口で出会ったノワレという魔女の家なのだろう。
「幻想的ですね。セントラルの秘境、と言ったところでしょうか」
 ハヤンさんは絶景に心を躍らせたが、その様子を見てオルドさんが引いた。
「秘境って……あの島の草木の色を見てみなよ。フラクシアの忌色、青緑の島じゃないか」
「忌色?」
 またしても初耳の概念だ。どんなものか聞いてみると、オルドさんは咳払いして解説した。
「青緑は死の色、穢れの色だ。人間の血の色で、生を司る赤とは対照的な色だからね。崇暁教を象徴する朱色とも正反対だし」
「付け加えると、竜神に対抗した悪魔(オルク)の血の色が青緑だったことから、その手の色は忌み嫌われているんだ」
「ですが、そういう慣習を取り払い、己の視点で世のものを見つめ直すのが、世界の編纂者の常識というもの。ご覧ください、陽の光を反射して煌めく湖、そよ風に撫でられて流れる翡翠の草木。私から見れば、色彩を宝石に閉じ込めたような絶景ですよ」
 ハヤンさんは目を輝かせながらこの景色を仰いだ。俺もそれに同調するが、巡礼者の二人組はたじたじの様相で彼女を見ていた。

 冒険家のエルフを先頭にして、俺たち旅人は湖の群島へと足を踏み入れる。この世界の人間が恐れるという青緑、その色をした地面を踏み締めていくと、サクサクと軽妙な足音が鳴る。
 風光明媚な光景を構成する青々とした植物は、葉の一つ一つが宝石のように鮮やかだった。ターコイズやヒスイを思わせる青野原は、俺の旅路の中でも一際思い出に残る景色だった。
 ――翡翠(ヒスイ)、か。翡翠は日本の国石だが、そう紐づけられたのは最近になってからだ。世界で最古の翡翠文化発祥地と言われている。つまり、俺たちの故郷にとっても『尊い』とされる色でもある。
 だが、この世界では翡翠色の色彩は忌避される。<我が君>――シュージャン・ウーが討伐した悪魔の血の色という理由で、だ。青緑への忌避は、旧文明の崇暁教の数少ない名残と言えるのかもしれない。同時に、こうした大きな矛盾を含んでいるからこそ、今の崇暁教はハリボテの宗教紛いと言えるんだろう。

「青緑……嫌な色だ。それに、確かここはゴブリン谷じゃなかったかい?」
 その崇暁教の敬虔な信徒が、足元の忌色に怖気付きながら弱音を吐く。そうだ、確かに聖地へ裏から入る際には、ゴブリン谷という場所の通過が必要だった。
 眼前に聳える奇岩の上に立つ家。あそこは魔女・ノワレの家がある。その奇岩の足元を見やると、目の前の島に竪穴式の住居の集落が数軒連なっている。
「ああ、間違いない。こここそがゴブリン谷なんだ……!」
 オルドさんはいよいよ震え上がったが、ヒグルマさんは檄を飛ばすように彼の背中を叩いた。
「全く、しっかりしろよな。ゴブリンなんて神話の中でも大した存在じゃなかっただろ」
「仰る通り。それに、現代に残るゴブリンたちが、人を襲うような真似はしないでしょう。虐げられ、忌み嫌われ、人代を離れたゴブリンは、牙を抜かれた忠犬のようなもの。ましてやこの集落をノワレが管理しているのなら、きっと悪い方々ではないはずです」
 ヒグルマさんとハヤンさんが、怯えるオルドさんを安心させようとする。どうしたものか、と俺は視線を三人の方から集落の方へ戻したが、その時に一瞬小さな人影が見えた。

 それをオルドさんは見逃さなかった。「ひい」と悲鳴を上げて、一歩後ずさる。彼の頼りなさは不思議だ。山麓の休憩所で、取り憑かれたように崇暁教の尊さを啓蒙してきた姿とは程遠く映る。
「あれは絶対にゴブリンだ。近づきたくもない」
「あれがゴブリンなら、是非この目で見なくては」
 彼とは好対照な反応をして、ハヤンさんは真っ先に集落の方へ向かった。続いてゴブリンの島へ渡ったのは、他でもない俺だった。俺にも好奇心ってヤツはある。オルドさんが抱くような恐れの気持ちも分かるが、それよりも彼らがどんな生き物か見てみたいんだ。
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