第13話:子供達の成長と自民党の惨敗

文字数 1,732文字

1992年4月に徳川家の長女、一美ちゃんが地元の中学へ入学して、出かけていった。その後、一美ちゃんは、英語や、歌を直ぐ覚える記憶力に優れた子だと言うことがわかった。そして1992年が去り1993年、太郎の高校受験の年となった。かなりの猛勉強で、1月には、自信がついたのか、浦和高校をめざすと、きっぱりと言った。

 担任の先生も合格出来るんじゃないかと言い、試験に落ち着いて取り組む方法を教えてくれたようだ。それによると、試験は、出来るだけ早く解くことが一番重要で、解いた後に、見直す時間をどれだけ残せるかがポイントだと言い、一番良くないのは、焦ること、自信をなくすこと。その対策は、深呼吸と、身体をリラックスさせる事を覚えることだと教えられたと言った。

 受験日・学力試験は2月28日で発表は3月8日と決まった。受験日に、両親がついていった方が良いか聞くと、その方が良いと言うので、泰平は、あらかじめ有給休暇をとり奥さんの志保さんとともに浦和高校の受験会場についていった。試験開始前1時間前に到着し目を閉じて、深呼吸をして、簡単な体操をして、試験会場に入り、瞑想をして落ち着くようにしていた。

 開始の合図とともに、一斉に、答案用紙に書き始めた。それから、運を天に任せるように、廊下から、暖房のきいた、控室に行き、試験の終わるのを待った。やがて、終了の合図が鳴り、答案用紙を回収して、士官会場から、太郎が出てくると、ピースサインを出して、にこやかに出てきた。多分、行けるよと笑った。

 そうして、3月8日、両親と出かけると、9時ちょっと前に、行くと、大きな紙が掲示板に張り付けられた。太郎の受験番号の37番を見ると、母の志保さんがあったと見つけた、合格となった。合格祝いに何が欲しいと泰平が聞くとパソコンのセットと太郎が言ったので、わかったと答えた。

 1993年、日本では、あれだけ強かった自民党から、多くの離党者がでて、新生党、新党・さきがけが結成された。以前の日本では想像もつかなかった、自民党が敗れるという事態が起きて、自民党が下野して、非自民非共産の細川護熙内閣が成立した。 第40回衆議院議員総選挙 - 自由民主党、日本社会党が敗北し、古い政党に時代は終わったように思われた。

 また、この年、日本では過去に例を見ない、米の大凶作の年で、やむなく、政府は、非常時なので、大量のタイ米を輸入して、不足分を補おうとしたが、実際には、旨くない米なら、いらないと、ゴミ箱に捨てられるという事態が、全国で散見された。そして、天下の宰相、田中角栄氏が12月16日に亡くなった。もちろん賛否両論があるのは事実である。

 しかし、何と言っても大きな仕事を成し遂げた偉大な日本の首相だった事に間違いないと言える。そして古い重みのある政治家の巨星がおちた。やがて1994年となり1994年があけると、この年は徳川家の長女の一美が中学3年生になり成績はクラスで1~2番目、学年で5~6番手であった。そのため、油断しなければ名門校に入れる成績だった。

 徳川泰平が、一美に将来のビジョンを聞くと大学の英文科で完璧な英語を学びたいと言い、模擬試験を受けたいので進学塾に入れさせてと言うので入学を許可した。その後、2月から浦和の進学塾に通い模擬試験を何回も受けて自分の弱点を見つけ問題集、弱点教科に頑張り出した。その後、意欲通りに成績が上昇し4月の文字試験の結果、浦和高校の合格確率が75%に達した。

その後も、確認のため問題集を解く日々が続いた。1994年3月にソニー株を3050円で、1万株売り、1430万円の純利益たなり残金が1700万円となった。この年は、自民党から政権を奪取した野党連合が、その烏合の集団ぶりを露呈して、4月28日に細川護熙首相辞任、羽田孜内閣発足し、たった2ケ月で、また、羽田内閣総辞職。

 自社さ連立政権の村山富市内閣発足し自民党与党に返り咲くと与党が二転三転するという珍事が起きた年だ。年末12月には、羽田内閣退陣で下野した、新生党、公明党、日本新党、民社党等が合流して、新進党結成という、まさに、国民不在の政治家による政治家のための政治がまかり通る混迷の年となった。
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