第1話:徳川泰平、誕生から恋愛まで

文字数 1,633文字

 徳川泰平は、名は、堅そうな名前だが、実際に徳川将軍家との関係はない。古くからの農家で、江戸から、明治時代に河川運送の関係の仕事をしていた先祖はいたが、徳川将軍家との関係はないようだった。それでも6代前の先祖の墓があるので、浦和地域では、有名だった。江戸時代の頃からの海運で財をなした代々の名家で、多くの分家があり、徳川家の親戚も、15世帯以上と多く、浦和、大宮、川越周辺に点在していた。

 この地域も1945年、第二次世界大戦後、徳川家の親戚も、工場地帯に近い所では、空襲に遭って燃えてしまった家もある。そういう時は、親戚の間で、納屋を改修して、貸してやったり、使ってない、離れを使わせたりして、助け合って生きていた。また、食べ物が少ない時には、やはり、親戚のよしみで、ひもじい思いをさせないように融通し合って暮らしていた。

 そうして、食べるものに不自由しなくなった昭和29年・1954年6月9日に、徳川真一と妻の富の間に、長男、徳川泰平が誕生した。両親が、戦争後であり、これからの世の中が、天下泰平の世の中になるようにと、徳川泰平と名付けた。しかし、何故か、徳川泰平の後、子供が出来なかった。一人っ子の徳川泰平の血液型はAB型、努力家で堅実、謙虚な性格。

しかし、大きくなるに従い、将来、何か、大きな事をしたいと言う願望の強い男の子なった。小さい頃に大病する事もなく、元気に近くの幼稚園、小学校で、地元の仲良し仲間と、仲良く遊んでいた。そう言う事で、一人っ子と言っても、友達が多く、特に寂しいという感じを持っていない、明るく元気な男に育った。

 小学校を出て、地元の中学進学し、中学での成績は、中の上程度で、中学卒業後、地元の有名な浦和商業高校に入学してソロバン部に入り、ソロバンと向かい合う毎日で、コンクールをめざしてソロバンの腕を上げて、卒業する時には全珠連2段の免状を手にした。そして、この高校で、優秀な生徒だけしか入れない埼玉銀行に入行した。

 祖父・徳川真一も、AB型で、農家出身であり、幼友達の親友・高田善平が切れ者で、中学を卒業して、徳川泰平は地元の自動車・農耕機械の修理の会社に就職し、努力して総務部長まで昇進した。父の親友の高田善平は、地元の名門の県立浦和高校を出て、奨学金をもらって、一ツ橋大学・商学部を卒業して、中堅の証券会社に入社した。

 その頃、埼玉の浦和地区で資産家といえば、須賀川家だ。最近、何故か、急に、金持ちになった家で、豪華な車を何台も持っていた。地元の祭りや公民館に、最新電化製品を寄贈してくれりと、何かと、良くしてくれるので、地元でも評判が良かった。そして、徳川泰平が1970年、浦和商業高校に入り、1973年4月、地元の埼玉銀行に勤めた。

 この頃、いつも優しく指導してくれる先輩の安井武彦という同じ浦和商業高校の2つ上の先輩が、金融機関に勤めた。安井武彦さんは、泰平に、無駄遣いせずに、お金を大切に貯めて、うまく運用してあげれば、会社を定年になる頃には、悠々自適な生活が出来るだけのお金が貯まるはずだから、一生懸命に働き、お金を大切にしてあげると恩返しをしてくれると教えられた。

 その話を聞いて、毎日、母の手弁当で、無駄遣いをせず、銀行まで、自転車で通う毎日だった。すると、徳川泰平は、父に相談し、頭金として、100万円を借り、毎年、少しずつ返すと言うと、了解してくれ、100万円を1973年4月から郵便局の定額預金にした。そうして、1974年4月に150万円貯めたので、50万円を返した。

 その頃、徳川真一が株をやってきて、ソニー株が安っているから買うと良いと教えてくれた。徳川泰平が、1974年9月26日に、所持金の55万円で492円で千株、49.2万円で買い指値を入れた。その後、風邪で体調を崩し、会社を休んだが、やがて体調がもどり、9月28日に、埼玉銀行に出勤した。その後、10月5日に、49.2万円でソニー株千株買えた。
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