第14話:一美と太郎の受験と留学

文字数 1,723文字

 また、この年の夏は猛暑によって全国各地で水不足となり、東京で気象庁の観測史上最高温度の39.1度を8月3日に記録し、この年から以上気象という言葉が、当たり前のように使われ始め、最高気温が毎年のように塗り替えられるようになった。言わば、異常気象元年と言える年だった。そして1994年が終わり、1995年を迎えた。

 1995年2月26日が、県立浦和高校の受験日で、3月6日が合格発表の日だった。両親が、受験日についていこうかと聞くと、どっちでもよいと言うので、ついて行った。一美は、強気なタイプで、今回の受験も、まだ人生の入り口よと、強がっていた。その日は、ちょっとイライラしてるようで、泰平が、落ち着けと行ったが、聞いてる風ではなかった。

 すると、志保さんが、いつもの優しい顔から、怖い顔になって、あんた、まだ人生の入り口を言って癖に、怖いのというと、いら立って、そんなことないと言うので、いや、怖いのよ、ほんとは怖いのよと言い、高校受験くらいで、ビビッてるんじゃ、たいしたことないわねと、きっぱりと言った。すると、一美が、志保さんに、どうしたらよいのと懇願するように聞いた。

「すると、自信があるなら、ビビらないで他の連中は、みんなタコだと思いな」
「絶対勝てると3回言って他の連中より早く問題を解いて見直せば完璧に受かる」と言い、一美の肩をたたいて、試験会場に送り出した。すると落ち着いたいつもの一美にもどって行ってきますと言い試験会場に飛び込んでいった。

 控室で待っていると、終了の合図が鳴って、一美が、いつものように、自信に満ちた顔で、戻ってきて、ベストは尽くしたと言い晴々とした顔をした。やがて、合格発表に日、両親もついていき、掲示板を見ると、一美の受験番号46番があったのを自分で見つけると、あったと言い、大きなため息をついたかと思うと、大粒の涙を流して、母、志保さんに抱きついた。

「すると志保さんが、小さい子供に言う様な語り口で、よくやったわね」
「すごい、本当にすごいと言うと肩を震わせて泣いた」
「泰平には、そこら辺の感情の動きが、よくわからなかった」
「それでも、とにかく合格おめでとうと言った」

 そして合格祝いに何が良いかと聞くと大学に入ってからの留学費用をお願いねと言い、その時まで待ってると笑った。さらに待っている4年間の留学費用は高いわよと笑った。1995年10月5日、徳川泰平は長男の太郎に大学は、どこを受けるのかと聞くと東京工業大学情報理工学部、早稲田大学・情報通信学科といった。合格の可能性は現時点で70%だと言った。

 その後、また予備校に入って模擬試験を受けたいと言い入学を許可した。そして1996年を2月に両校受験して東京工業大に落ちて早稲田大学機械工学科に合格した。1995年3月、ソニ-株1900円で5千株を950万円で買い、残金が850万円となった。1997年11月4日、注目していた日本初のインターネット関連株のヤフー株上場した。

 徳川泰平の両親にも勧めると夫婦で2株を400万円で購入し泰平と志保さんも同じく2株を400万円で購入し残金が500万円となった。997年11月7日、長女の和美さんに、どこに入りたいと聞くと、ずばり上智大学英文科と言い、できたら最終的にアメリカの大学に編入したいと驚くような事を言った。

 1998年、東京都立大学・英文科と上智大学・英文科を受験したいと言ったので、泰平が了解した。受験申し込みをして受験日を迎え、最初に、東京都立大学英文科に合格して、続いて、上智大学英文科に合格すると上智大学に行きたいと言い、入学手続きをとって、上智大学英文科に入学して1998年4月から電車で30分で通学していった。

 1998年5月に長男の徳川太郎がアメリカ留学したいというので了解するとカリフォルニア大学サンディエゴ校の短期留学に応募し1998年6月から8月末までの3ケ月の短期留学に出かけた。留学のための日本の代理店に留学費用を支払い、その後、徳川太郎がサンディエゴに到着した後、6月5日にサンディエゴの銀行の徳川太郎が口座を開設。そこに父の徳川泰平が米国での滞在費用1万ドルを振り込んだ。
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