第27話:須賀川肇さんの死とカリブクルーズ1

文字数 1,687文字

 9時半頃バスに乗り込み宿泊先のヒルトンホテルに到着して、荷物をフロントに預けて、タクシーでアラモアナショッピングセンターへ行き、お土産を買い込んで、ホテルに戻り、チェックインして、翌日、11時にタクシーを呼んでもらい、ホノルル空港、15時発で成田19時に到着して、2006年4月23日埼玉の家に、義理の両親と帰り、両親に、お土産を渡した。

 一方、米国に飛んだ徳川太郎の勤めるホンダジェットでは、2006年7月に正式に航空機市場への参入の計画をマスコミに公表、市場参入を宣言し、10月から米国でホンダジェットの受注を開始した。その後、2007年シティバンク日本は日本での個人向け業務から手を引いて、銀行の支店と銀行員ごと日本の代表的な金融機関の1つに買収されシティバンクの個人向け業務は消滅。

 新たに買収された日本の金融期間として別名で再出発した。2006年10月15日早朝、急性心筋梗塞で所沢の防衛医大病院に搬送されたと息子さんから電話が入り徳川泰平と志保さんが車で病院に向かった。早期に発見されて命は助かると言われた。昼過ぎに心臓の周りの大きな血管が詰まっていて、そこにステントと入れる手術でひと安心となる。

 だが、他、2ヶ所、血管が詰まり始めてるので1-2年の内に再度手術が必要だと言ったが、体力が持つかどうかの問題もあるかもしれないとも言った。2006年12月15日に、無事退院した。やがて2007を迎えた。しかし2月の寒い朝、再度、須賀川肇さんが胸の苦しみを訴えて所沢の防衛医大病院に搬送された。心臓の機能が落ち心臓の蘇生をはかったが願い叶わず心不全で息を引き取った。

 そして、この徳川泰平と須賀川肇さんの夢の中の話は他人に一切、知られること無く終了した。2007年4月に、急に豪ドル高になり、それ以降、2008年7月迄の16ヶ月間、1万3千豪ドルを16回、満期解約して合計21万2千豪ドルとなり1豪ドル102円で、円に両替した所2100万円となり泰平は円を日本へ少しずつ戻した。泰平の実の両親も同額を同様にして、日本に戻した。

 2007年4月に今年12月からアメリカ、マイアミからカリブ海クルーズへ行こうと思っていますが、一緒に行きませんかと、隣に住む、義理の両親に聞くと、飛行時間が長いので、いかないと言われて、泰平と志保さんの2人で行く事にした。5月の土日は、義理の両親と4人で車で、横浜の港を見に言き、中華街でしたり、元町を散歩したりして楽しんだ。

 6月に、橫浜の先の本牧に、海釣り公園と言うところを探して、釣り竿を用意した。その後も、早朝に家を出て、出かけるようになり、車で出かけた。アジやイワシ、イイダコがつれて、特にイワシが多かったので、天ぷらにして食べた。夏になるになると、奥秩父、奥多摩、たまに山梨の八ヶ岳の麓や清里高原、諏訪湖までドライブして、涼みに行くようになった。

 秋風が涼しくなると、清里高原の紅葉の名所に出かけ、多くの写真を撮ってきた。その後、徳川太郎の勤めるホンダジェットでは、2007年11月にホンダ エアロ インク、米国で本社と小型ターボファンエンジンの生産工場の建設を開始して。多くの日本人技術者が渡米してきた。2007年12月13日に成田からヒューストン経由でマイアミへ飛んだ。

 ヒューストンでは、徳川泰平が、簡単な英語で、チケットをみせて、ヒューストンから行きの飛行機の乗り場を聞いて、移動でき、無事、マイアミ空港へ到着して、カーニバルクルーズの東カリブ航路のクルーズ船にのった。2007年12月15日、マイアミ港16時出発で、昼過ぎに乗船手続をして、荷物を預けた。

 その後、直ぐに、客室に入れるのかと思っていたが、13時半でないと入れず、レストランへ入ると、ウェルカムドリンクのシャンパンが配られ、海を眺めながらランチをいただいた。出港前には全員参加の避難訓練がありました。放送が流れ、それぞれが指定された救難ボートの前に集まるというもので、全員が指定された場所に行って、放送の指示通り、非常時の船を離れる方法を訓練した。
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