第12話:新時代の幕開けと太郎の進学

文字数 1,758文字

 その他、寿司屋で、アジ、イワシなどを堪能して、旨い酒もいただき、帰って来た。秋は、御殿場、冨士山麓の紅葉を写真に収めて、ハイキングを兼ねて、夜は、温泉宿に泊まり、1泊2日の旅をしてきた。やがて、1989年を迎えた。この年は、1月7日に昭和天皇が病気のため崩御。日本元号が、昭和から平成となり、新しい時代の幕開けという感じを強くした。

 翌月2月9日、天才漫画家の手塚治虫さんが亡くなった。4月21日には日本の商売の神様と言われた松下幸之助さんが後を追うように亡くなり、本当に1つの時代が終わったという感じがした。また11月4日、オウム真理教問題を追求していた弁護士・坂本堤とその一家がオウム真理教幹部により殺害された事がわかり、その後、残虐なオーム真理教の事件が次々と判明した。

 1989年は、そう言う意味で、良い意味でも、悪い意味でも新しい時代の幕開けの年と言える。1989年10月にソニー株を4300円で、5千株売り、1230万円の純利益たなり、残金が1500万円となった。そうして1980年代が終わり1990年となった。1990年4月に、徳川家の長男、太郎が、地元の中学校へ入学した。

 そして、地元の小学校からの仲間達を一緒に中学生になり仲良く中学校へ通い始めた。1990年と言えば、国際花と緑の博覧会、通称、大阪万博の年だった。アジアで初めて開催された会場面積は約140ヘクタールで、略称は「EXPO’90」「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとしていた。

 日本を含む83カ国55の国際機関、212企業・団体が参加した。1990年4月1日~9月30日、総来場者数は2312万6934名で、特別博覧会史上最高を記録した。もちろん、徳川家も、8月30-31日、家族7人で新幹線に乗って、1泊2日で出かけてきた、もちろん、混んでいて、少し見たという感じしか記憶に残っていなかった。

 混んでいたという印象が一番強かった様だ。1991年5月15日に日本のバブルの象徴とも言える お立ち台で有名なディスコ・ジュリアナ東京が、オープンしたが、その時、既にバブル崩壊にさしかかっていた。1991年10月ソニ-株を1250円で1万株、1250万円で買い、残金が250万円となった。

 1991年の10月の休みに、徳川家の7人で、開通したばかりの東北新幹線で古川駅で降りて在来線に乗り換えて、鳴子温泉に泊まって帰って来た。子供達は、新幹線の外観や車内をみて、興奮していた。また、その早さも、すごかった。多くの写真も撮ってきた。しかし鳴子のこけしは、長女の一美さんが、興味を示したくらいで、他の男の子は、興味がない様子だった。

 しかし、お土産として、こけしを女性の分だけ3個買ってきた。やがて1991年が過ぎて、日本のバブルが完全に終わりを告げ、残った負の遺産が、その後の日本経済やバブル紳士の首を絞めた。1992年があけると、この年は、徳川家の長男の太郎が、中学3年生になり、成績はクラスで3番目、学年で14-15番手であり、名門校に入れるかどうかぎりぎりの所だった。

 徳川泰平が、太郎に、将来のビジョンを聞くと、大学の理工学部で、電子工学を学びたいと言った。そこで、その切符を買えるかどうか微妙な所だから、その道を進むなら、持って勉強せよというと、進学塾に入れさせてと言うので、入学を許可した。その後、2月から、浦和の進学塾に通い、模擬試験を何回もうけて、自分の弱点を見つけ、問題集、弱点教科に頑張りだした。

 そのため、意欲通りに成績が上昇して来た。4月の文字試験の結果、大宮高校は、合格確率75%、めざす浦和と大宮高校は70%の確率だった。その後も、勉強を続け、9月には、浦和高校の合格確率が75%に達して、クラスで初のトップの成績となり、その後も、夜遅くまで、問題集を解く、日々が続いた。それをみていた、

 長女の一美さんが、英語話弱い、太郎に英語を教えてやっていたのが、微笑ましかった。その他、日本での明るい話題と言えば大相撲で日本人の貴花田光司が19歳5か月の最年少幕内最高優勝を飾った事だろう。これもバブルと同じで、その後、本当に強い日本人力士は出なかった。
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