第20話:太郎の米国勤務と一美の米国留学

文字数 1,745文字

 すると、お客様、我が社への誹謗中傷は困りますと言った。そんな、やりとりを1時間程して仕方ない解約すると高田善平が観念したように言った。高い授業料だったと小さな声で、つぶやいた。その銀行マンとのやりとりを聞いていた須賀川親子の父、須賀川肇さんが、徳川泰平の顔をまじまじと眺めた。

 そして、あんた昔、どっかで会わなかったかと訳のわからないことを言い出した。息子の須賀川治さんが、そんなはずないじゃないですかと言った。年齢から言って、あり得ないと言った。それもそうだようなと須賀川肇さんが、半分、息子の話を聞いて引き下がった。須賀川肇さんが、徳川泰平に貴重な御意見をありがとうと言った。

 私たちも、もう少しで高田善平さんと同じファンドを買っていたと言い、それでは、これで、話はわかった。どうもありがとうと言って須賀川親子が帰っていった。2001年9月11日の米国同時多発テロで延期になっていた徳川太郎の渡米の話が決まり、仲間4人と2003年11月11日に日本を出てアメリカに向かった。

 12月にはホンダジェットの初飛行に成功したのを見ることができた。その後、2004年10月には小型ビジネスジェット用エンジン事業化に向けGE・ Honda・ エアロ・エンジンズに移った。やがて2003年11月になると足早に年の瀬が近づいた。12月24日、泰平の実家へ、4人で、大きなクリスマスケーキとフライドチキンを買って訪ねた。

そして、クリスマスパーティーを開いて楽しんだ。やがて2004年がやってきた。今年も初詣で家内安全と子供の成長と大病しないことをお願いして帰って来た。1月20日に和光市駅の近くに徳川泰平と義理の父母の家が完成した。義理の母のリウマチは東京のリウマチの専門科の治療で痛みと炎症が落ち着いて楽になったと喜んだ。

 徳川泰平は新築した翌日、実の両親を呼び落成披露パーティーを開いた。これで長生きしなければと義理の両親も大喜びしてくれた。2004年は2月10日、暖かい日にワゴン車で徳川家6人で練馬から環状8号線を通り第三京浜、橫浜新道を通り藤沢、茅ヶ崎を走った。

 平塚から西湘バイパスを通り相模湾から見える富士山を見に行き小田原港の食堂でアジフライを食べ帰って来た。冬の雪をかぶった富士山が前方に見えて左側が相模湾という素晴らしいドライブで好評だった。2004年3月に長女の徳川一美が上智大学英文科を卒業し、1年間、以前留学したカリフォルニア大学サンディエゴ校に再び留学したいと父の徳川泰平にお願いした。

 今回は、カリフォルニア大学サンディエゴ校エクステンションという大学卒業後18歳以上のビジネススクールであり、そこで、米国人の仲間と一緒にアメリカで、起業したいといった。そこで、泰平は、1年間やって、起業できなかったら日本に戻って、就職するということでいいねと、確認すると、わかりましたというので、了解し、費用を出すと約束した。

 また、パソコンのスカイプで、定期的に、泰平のところへ連絡する事も約束させた。その後、2004年5月10日に、サンディエゴへ飛んだ。2004年4月末に、目黒川の桜を見て歩き、多くの写真を撮ってきた。 2時間位して、夕方5時に、家に戻ってきた。8月の暑さが厳しかった。 11月になると、運動のために,ラジオ体操やヨガをリビングで始めた。

 12月24日に、徳川家で、恒例の盛大なクリスマスパーティーを開催して、クリスマスパーティーを終えて、家に戻った。2004年12月5日、徳川一美から電話で、同じビジネススクールの仲間3人と一緒に、海外の珍しい品物をネットオークションで売る商売を始めたと連絡が入り2005年1月に日本に帰ってきた。そしてバザー、フリーマーケット、珍しい着物、陶磁器、人形、工芸品、金箔、精密木工細工を探しまくると連絡が入った。

 やがて2004年が終わり2005年を迎えた。2005年1月7日に日本に帰ってきた徳川一美が、実家に戻ってきて、アメリカ人が欲しがるような物とはどんなものか、両親に聞いても、祖父母に聞いたが、わからないといわれ、関東でのフリーマーケットをあたってみようと、1月10日から、東京、横浜、東京都内、関東一円を回るようだ。
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