第4話:現在の世界に帰らねば1

文字数 1,693文字

 翌日、徳川泰平は、須賀川さんにお礼を言い家を後にし東京駅へ向かった。そして1965年10月2日、電車を乗り継いで東京駅を降りると以前行った所へ向かうと壁に穴が見つかり、もしかして以前の様に過去から現代に戻れるかも知れないと思った。おそるおそる入って見ると、以前と同じ様な臭いと湿り気がして頭に水がかかったと思うと、再び、意識を失った。

 少しして、暗闇の中に灯りが見え、駆け足で、壁から出た所で、頭を殴られた感じがして倒れた。その後、おい、大丈夫かと言う声で目を覚ますと、数人の若い男性が、お前、飛び込み自殺しようとしたのかと聞かれ、そんな事されたら、他の人が大きな迷惑を被るんだぞ、わかったか、甘ったれてるんじゃ無いぞと、怒鳴られた。

 とりあえず、「すみません、ごめんなさい」と謝ると仕方ねー、今日は、警察に突き出すのは、やめてやるが、二度とこんな真似するじゃ無いぞと言われ、ハイわかりましたと答えた。若い連中がいなくなると、おもむろに立ち上がり駅のベンチで意識が完全に戻るのを待った。30分位しただろうか、気分が戻ると喉が渇き腹が空いたので、キヨスクでパンとジュースを買って駅構内のベンチで食べた。

 完全に回復するまで、2時間近く休み、駅を降りると、以前、謎の穴に入り込んだ駅と同じ駅だった。カバンの中を探ってみても、書類、株の価格の長期データも無事、財布の中身は18万円増えていた。暗くなってきたので、実家へ帰った。実家に帰ると、お帰りと言うだけで、特に変わりは無く、迎えてくれた。

 そこで、とぼけて、今日は、何月何日だっけと母に聞くと泰平、どうしたの銀行って、そんなに大変な仕事をさせられてるのと言い、1976年1月13日の夜20時半だと言った。そ、そうーだよね、ただ確認しただけだよと言うと変な子ねと笑った。その後、風呂には入り、夕食をとって床についた。

 1976年は1月20日頃から2月6日頃まで、北陸、新潟、山形、青森、北海道で大雪の年となった。東京でも1月21日から25日まで、最低気温が-4℃と、例年にない低温で、一部で水道管が破裂する騒ぎが生きた。3月になると、梅が咲き、普通の年と同じように季節が巡り4月を迎えて、埼玉銀行にも新人が入行してきた。

 1976年、同じ浦和商業高校出た、1年下の後輩で入行3年目の斉藤志保さんの仕事の面倒を見るように、上司から言われて、行員の入出金計算の検算の仕方を教えて、実際に、やってみせて、その後、一緒に検算をするようになった。その後、1976年4月に、残金が100万円になったので、もう一口100万円の定額貯金を始めた。

 株の本を読んでみると、儲かる株は、成長する株は、技術力のある株で、有名な株で安全な株は、大型株と書いてあり、将来、急成長する株は、個性的は業態の株だと書いてあった。その後、日本株を丹念に調べると、長期にわたり、投資できるのは、ソニーとトヨタ株だと思い、この株の株価を追いかけるようになった。

 その頃、浦和商業の先輩の安井武彦さんが、泰平の1年下の同じ高校出身の後輩、斉藤志保さんを正式に紹介してくれた。そして、何かわからないことがあれば、教えてやる様にと言われた。その後、月に1-2回、休みの日に会うようになって、志保さんのお母さんが、リウマチで苦労して事や、父も身体が弱くて、会社を辞めて、近くの商店の手伝いをしてると話した。

 夏には、新宿、池袋で、デートするようになり、急速に仲良くなっていった。9月には、志保さんの家に、伺い、晩のおかずになる、コロッケ、メンチ、ハムカツなどのお土産を持って行った。その時に、斉藤志保さんのお母さんの茜さんが、笑顔で、ありがとうと言っていたのが脳裏に焼き付き、助けてやりたいなーという気持ちが芽生えた。

 10月には、志保さんを、徳川泰平の実家へ連れて行き、志保さんを両親に紹介した。すると、母の富さんが、志保さんを見て、銀行に勤めてるだけあって、しっかりしてそうだねと誉めてくれた。そして、泰平は、志保さんを助けてやらないと行けないという気持ちが、愛に変わっていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み