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文字数 1,083文字

 その雨は、午後から次の日まで続きました。
 僕は朝早く起きてジャージに着替え、朝食もそこそこに公民館へ向かいましたが、着いたときには大人たちはまだ来ていませんでした。
 ただ、理子さんだけがそこにいたのに、僕はほっとしました。
 しかし、前日にあんなことがあったので、「おはよう」の一言がなかなか出せません。傘を差して、黙ったまま突っ立っていると、理子さんのほうが口を開いてくれました。
 ただし、その言葉は「おはよう」ではありませんでしたが。
「ごめんなさい」
 そう言われて、僕はしばし考えました。謝られる心当たりがなかったのです。
 河原に呼び出されたのは、仕方がありません。僕が祝詞を上げられないからです。
 その練習を妨害したのは、豹真です。その事情を知られたら、たいへんなことになりますが。
 大雨が降ったのは、天災です。理子さんが雨乞いをしたというなら話は別ですが。
 そのうちに、公民館の鍵を開けにきた町内会長さんに冷やかされ、ろくに挨拶も交わさないで練習が始まりました。
 豹真は大人たちが集まった後に、横笛の音源CDを持ってやって来ましたが、僕を見てもろくに目を合わせませんでした、
 祝詞の練習は、最初だけ飛ばされました。当日まで1週間を切っていたからですが、僕は気に病むことはなく、むしろせいせいしていました。
 本来、数日で終わることになっていた練習です。祝詞の量も大したことはありません。
 雷を呼ぶ、古代の「蛇」に関係した言葉さえなければ、どれだけ正確な発音や抑揚を求められようとも、どうにでもなるのです。
 町を離れてからも、僕はこの全文をメモして持っています。

  始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、汝このくにに来して ひととせ、ふたとせ、長きにわたれば、とこしえの恵みを賜はん。

  受けたまへ、受けたまへ、我みとせ、よとせ、とこしへに、日御子の恵みに  て、五種の穀やすらへん。

  五種の穀とは何ぞや、何処より来しものぞ。(ひと)(ふた)()()(いつ)数へて、速日、速水のもと培はん。

  米・麦・豆・粟・稗、月詠(つくよみ)(しい)する保食神(うけもちの かみ)より来たりて、()()()()十年(とと  せ)、実りて()して速日(はやひ)速水(はやみ)祀らん。

  速日・速水いかに祀らん、五種の穀、十の歳、誰か継がん、いかに継がん。

  子に子が咲きて孫を抱き、春は山より迎えて、夏は里にて主し、秋は山へ送り て、冬は遠く崇めん。
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登場人物紹介

檜皮和洋(ひわだ かずひろ)

 父と共に不思議な力を秘めて流浪する少年。頭はそこそこ切れるが引っ込み思案で、自分も他の人も傷つけるまいという思いから、重大な決断からはつい逃げてしまう。

 しかし、追い詰められたときに発する力は、大気をも震撼させる。

樫井豹真(かしい ひょうま)

 超自然の力と屈折した思いを秘めた、小柄ではあるが危険な少年。冷酷非道に見えるが、心のうちには自分の力への誇りと、同じ力を持つ者たちへの熱い思いが秘められている。

刀根理子(とね りこ)

 冷淡な言葉の裏に、激しい上昇志向を秘めた少女。自分には厳しいが他人にも厳しく、年長者にも妥協しない。

 物静かだが。判断は早く、行動力にあふれている。時機を捉えれば、最小限の手間でやるべきことをやり遂げる

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