今ここで彼に何かを
文字数 1,946文字
翡翠の欠片はクルクル回りながら、冷たい光を溢す。
――リィ・グレーネが名君だなどという風評は、蒼の妖精の権威を保つ為に後世の者が勝手に付けた尾ひれだ。私は周囲に助けられるばかりの、貧弱な情けない長であった。
ただ、多少の時間を歪ませる力を授かって生を受けていたので、この場所で里と血を守りながらいみじく生きている――
ネリはシュウに片手をしっかり掴まれたまま、儚く揺れる翡翠石を見つめた。
五百年前……さっきのオレンジの光の脅威が現れ始めた頃に長になったのなら、彼女は本当に苦労をしたのだろう。
歴史書によると、長の直系たる桁違いの術力の持ち主は、彼女で最後だった。
後継を得られず、『自然界』は蒼の妖精を要らないモノだと排除しようとする。
彼女の選択肢は、
自らの命を出来得る限り永らえて
、里と種族を守る事だった。そうして独り、時間の流れを緩めた空間で。周囲に先立たれながら。
「私、貴女の、為に……」
(何か出来る?)と聞こうとした所で、「ネリ!」とキオに遮られた。
「長クラスのヒトに言霊(ことだま)はダメ。口に出すと契約になってしまう」
隣のシュウも慌てたように、手をギュッと握り直す。
――お前も賢いな――
翡翠がチラチラと光った。
――術力が身の奥深く、石のように固く押し込められている。自分でやったのではないな?――
「うぅん、自分でやった。成長する度にギュウギュウ折り畳んで。父さんのやる事を横でずっと見ていたから、覚えた」
ネリは、ハウスの井戸端で子供が浮いた不思議を思い出した。あれはキオだったか。
翡翠石が激しく回転した。
――ハールート! ・・ハールートとリオナの息子!?――
「母さんを知っているの?」
キオは、多少動揺した声を出した。
リオナという名を、ネリは、ついさっきも聞いた。
空の景色が消える直前に、ハルさんが呟いたのだ。
「母さんは貴女と知り合い?」
キオの質問に、声は沈黙している。
ネリは一所懸命頭を働かせた。キオのお母さんは、キオが三つの時に病で亡くなったと聞く。
あ ・・!!
……い、いや、これは、思い付いても口から出してはダメだ……
しかし声は、ネリの行き着いた答えに先回りした。
――リオナの術力は桁違いだった。歳を重ねて大人になっても、そこの娘と同じく、消える気配が無く成長するばかりだった。髪色が似ているな、祖先を同じくするのやもしれぬ――
ネリの背筋が冷えた。
隣のシュウは、よく分かっていないながらも、懸命にネリの手を握っている。
――リオナは賢く優しい娘であった。家族の中で孤立して、書物だけが友達だった。ハールートは彼女を監視する為に近付いたが、やがて情が通って夫婦(めおと)となった――
キオは口を結んで立ち尽くしている。
――『自然界』に目を付けられた術力の持ち主は、いつ『クモの巣』に襲われるか分からない。幼い内に術力が消えてしまえば問題ないが、成長しても持ち続ける者には闘い方を教えておかねばならない。
それはハールートの仕事だった。知っていれば大した事はない。その者の術力を越えたクモの巣が現れる事はないのだから――
言われてネリは唾を呑んだ。
大したコト……あったと思うけれど、確かにあらかじめ教えて貰っていれば、あそこまで慌てずに済んだ。リオナさんは普段からしっかり指導を受けて、さっきの私みたいに、オレンジのクモの巣をやっつけようとしたんだ。
――本人が跳ね除ければクモの巣は比較的容易に退いてくれる。だからなるべく本人が対応する物なのだ。ハールートは私の決め事を守っていた――
そう、対応出来る筈だった、それが
リオナを的にして
現れた物だったなら。――だけれど、私たちは
見誤った
。油断して目を離してしまっていた――ネリはキオの耳を塞ぎに行きたかった。
しかしキオは毅然と立って、口を結んで石のカケラを睨んでいる。
――クモの巣が的にしたのは、リオナの傍らに居た息子。きっとお前の術力は、母を遥かに凌駕したのだろうな、歩みもおぼつかぬ幼子の内から――
キオは黙ったまま小刻みに震える。
気が付くと、シュウの胸繋(むながい)を掴んでいた手が、馬の首の下を伝って伸び、キオの肩を大きくガッシリと掴んでいる。ネリも慌てて身を伸ばし、黒髪の少年の手首を握った。
さっきの、リィ・グレーネが勇気をくれたみたいに、今ここで彼に何かを送ってあげられればいいのに。
黒髪の少年はやっと口を開いた。
「ならば僕の役割は、貴女や父さんの後悔を、埋め合わせる存在になる事なんだ」
「ネリ、店の方を手伝っておくれ!」
声に、ネリは机の前で顔を上げた。
今流れた一筋の雫が書物の裏表紙に円を作っている。
慌ててそれを袖口で拭った。
思い出した、全部…………
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