キオ
文字数 2,532文字
父さんが足を止めた。
僕も足を止める。
夕焼けのオレンジに、冬枯れた黒い枝が身をくねらせながら伸びている。
その下で、淡い栗毛の女の子が、怖そうな大人の女のヒトに何か言われている。口をキュッと結んで、膨らんだ目の下が今にも破裂しそう。
父さんは黙って集中している。
僕は隣でまんじりともせずに待つ。
父さんにはこの距離でも、あのヒトが何を喋っているのか分かるらしい。
女の子が俯いてしょんぼりと、本当にしょんぼりと縮んでしまった。早く何とかしてあげなくては。
父さんが動いた。
女の子の傍まで歩いて行って、頭に手を置いてあげた。よかった。凍えていた身体に暖かみが戻って行く。
それから父さんは女のヒトと色々話し始めた。
僕はずっと、夕陽に照らされた女の子の細い遅れ毛を眺めていた。
あの日は学校から帰ったらすぐ、父さんに「キオ、出掛けるぞ」とマフラーを渡された。
普段あまり行かない隣の学区へ迷う事なく歩いて行ったら、女の子と女性が居た。父さんはたまにそういう時がある。
僕を連れて行くのは相手に安心して貰う為? って聞いたら、それもある、と明け透けに答えてくれた。
じゃあ僕はいつまでも子供でいた方がいいのかなと聞くと、父さんのやっている事を見て覚えて大人になって欲しい、とも言われた。
分かった。父さんの事は大好きだから、一挙一動余さず覚えていよう。
母さんの事も大好きだけれど、あまり覚えていなかった。
僕が三つになってすぐ、病気で亡くなったらしい。胸の奥に母さん大好きという気持ちがずっとあるから、きっと素敵なヒトだったんだと思う。
テオ叔父さんは、事あるごとに、母さんの思い出話をしてくれるけれど、甥っ子の反応が薄いのが不満みたい。
叔父さんにとっての母さんは妹で、僕にとっての母さんとは違うんだからしようがない。
淡い栗毛の女の子は、牧場に通って来る事になった。とても嬉しくて、他の事はどうでもよくなった。
たまに一緒に書物の音読をした。
さえずる小鳥みたいな声が心地好くて耳の奥が蕩(とろ)けそうだった。
そんな時間が二年も過ぎて
僕の進学について、父さんと叔父さん夫妻が話し合っている。
叔父さんは、首席が勿体ないから一番上の学校まで行かせるべきだと主張する。妹が成績優秀だったのにろくに学校へ行かせられなかった事を悔やんでいると。
そんなの……甥っ子をどんな学校へ行かせたって代わりにはならないのに……なんて思っちゃうのは、叔父さんのいう通り僕が冷たい奴だからなのかな。
でももし母さんが、学校へ凄く行きたいのに行けなかったのだとしたら、その心を慮るだけで切なくて胸が押し潰されそうになる。僕に何をしてくれたってもう取り返しが付かないのに……とも思ってしまう。
父さんにそっと言うと、お前は間違ってはいないが、大人はどうしても人生に後悔を積み重ねてしまう。それを他の物で埋め合わせようと懸命に足掻く生き物なのだ。だからその言葉は口から出さないでおくれ、と言われた。
叔母さんは、僕が学校で仲間はずれにされていないかと、それにばっかり気を揉んでいる。
そんな事より叔母さん、もっと自分の身体を労って欲しい。やっと自分ちの子供が成人したんだから、僕んちなんかに構っていないで、叔父さんと旅行とか行けばいいのに。
父さんに言うと、それも口から出すなと言われた。
そんなにややこしいなら、もう中等の学校へは行かなくていいや、勉強だけならどこでも出来るし。
なんて考えていたら、別の選択肢が現れた。
父さんに付いて蒼の里へ行った時、ヤークトさんが、ハウスに住んで里の修練所へ通わないかと勧めてくれたのだ。
「キオなら里の規則も身に付いとるし、長様も二つ返事で承諾くださったぞ」
それはすこぶる魅力だ。里の修練所には学んでみたい科目が沢山ある。
僕の街の学年の切り替えは秋だが蒼の里は春。中途になってもいつからの編入も認めてくれるという。ありがたい。
「父さんの心配はしなくていい。牧場は雇い人を増やせば回せる」
父さんにも言って貰えて、気持ちは蒼の里への進学に固まった。何だったらこちらを卒業しなくても、すぐにあちらに移りたいくらい。
叔父さん叔母さんは渋ったが、甥っ子が珍しく嬉しそうに前向きなのを見て、溜め息を吐いて何も言わなくなった。
しかし急な出来事はいつもいきなり訪れる。
淡い栗毛の女の子の術の力は、実はけっこう洒落になっていなかった。父さんが真顔になって考え込んだ程だ。
それを訓練で抑える事が出来ていたのだが、
「どうも、……定石通りに行かない、おかしい」
術の力って、十二も越えると自然と消えて心配なくなる物なのに、彼女はそうならないらしい。
「蒼の長様に相談してみたら?」
「…………」
「父さん?」
「……いや……キオは心配しなくていい。だがあの子と居て、何か変化を感じたら、些細な事でもいいから、すぐに父さんに話しておくれ」
「うん……」
その瞬間、キオの決意は、あの子と同じ街の中等の学校へ進む事へと翻った。
里への編入は延期して貰った。
あの子が安全な状態に落ち着くまで。
***
馬繋ぎ馬で自分の馬を取って、山茶花林へ駆け戻る時、坂を上って来るチトとすれ違った。
「キオ、駄目だよ!」
分かってる、居住区で乗馬はご法度。罰は受ける。覚悟はしている。修練所で学ぶ未来を失うかもしれない。
(でも、今、行かなきゃ)
勘だ、遅れると取り返しが付かなくなる。分かる、ビリビリする。あの子に、ネリに、『安全じゃないモノ』が迫っている。早く、一刻も早く……!
霧の迷い林に飛び込んだが、さすがに馬は迷わない。真っ直ぐに奥へ突き進む。
しかし、クラスメイトが一人着いて来てしまった。自分は危険に飛び込む覚悟が出来ているけれど、この子は多分そうじゃない。
駄目だ、言葉ではこの子を納得させられない。やっぱり役立たず、
僕が口から出せる言葉
なんて。ロープを渡してごまかした。
ネリを発見したら、ロープを切ってここへ置いて行く。
必死に感覚を張り巡らせる。
淡い栗毛の女の子・・ おぼろ気な記憶の中の母さんの、空のオレンジに照らされて金に輝く髪と同じ・・
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